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2009年5月 4日 (月)

美しい歌 前編

  地面を踏みしめると、草の匂いとかすかに水の匂いが立ちのぼる。

 陽の月の光があまり差さないせいだろう。この森はいつも水濡れた木の香がたちこめている。見あげると、長く伸びた緑の枝葉がまるで天井のように空を覆いつくしている。ところどころ、虫食いのように開いた穴から差し込む光だけでは、この地面を乾かすことはできないだろう。

 日当たりが悪いせいか、この森はあまり木の実の類は豊富ではない。リビカが好む果樹は低木が多く、この森では育ちが悪い。しかし代わりに菌糸類は山ほど採れた。日干しにしておけば、味わいも増すし保存も利く。その日も何本か、丸い傘のそれを採って麻袋の中に放った。
 もう少し南に行けば、森も開け、木の実の豊富な場所へとでるだろう。しかし、いまの自分にはすべてを隠してくれるような、この森の暗さがありがたかった。
 山菜を摘み、小さな鼠を捕らえ、ゆるゆると森を移動する。時々、木の幹に爪をたてそうになっては慌てて引っ込める。マーキングは本能による習性だが、いまは自分の匂いは残してはいけない。こんな深い森にも、いつ誰がやってくるかは知れないのだ。
 陽の月が傾きかける頃、麻袋はようやく充分に膨らんだ。自分一匹には多すぎる食糧。しかし待つ者の腹を満たすには程遠い量だった。
 陽の月を追いかけるように、森を西に行く。だんだんと上り坂になってくる地面に足を滑らせないように慎重に歩く。やがて森は林となり、さらに進むと突き当たりと言わんばかりに垂直に削げた山肌が立ちはだかる。
 おそらく昔に大きな崖崩れがあったのだろう。むき出しになった硬い地質のそこには、草木もあまり生えてはいない。その壁に沿うようにさらに歩くと、ぽっかりとした洞穴の前に来た。これは自然にできたものではない。

 洞穴の前に立ち、中の暗闇へと声をかける。
「アサト……」
 自分を待っていてくれる者の名前。愛しい者の名前。
 洞穴の奥から声がする。獣の唸りにしてはあまりに大きく、雷鳴が轟くような不気味さに満ちていた。
 闇から声の主が這うように姿を現した。うっかりこの場所に迷い込んできた猫がそれを見たら、腰を抜かすか気を失うかしてしまうだろう。その姿は一言で言えば──魔物だった。
 身の丈は普通の猫の倍近く。全身は黒い毛に覆い尽くされ、両顎からは湾曲した二本の角。顎の先にも捩れたそれ。筋肉が隆起した腕は、身の丈に比べ不自然に長く、節くれだった指の先には、凶器としか言いようのない鋭い爪が生えていた。
 「────」
 黒い魔物が目の前に立ち、またひときわ大きく唸りをあげる。知らぬ者が見れば、哀れな猫が魔物に食らわれる寸前と思うだろう。
 しかし自分にはわかる。その唸りの持つ意味が。
「コノエ──おかえり」
 魔物は──そう「言って」いる。最愛の猫が自分の名前を呼んでくれている。
 だから自分も、その毛むくじゃらの胸に顔を埋め、それに応えて囁いた。
「ただいま──アサト」

.

 世界を塗り替えようとした魔術師との戦いのあと、コノエとアサトは、しばらくの間火楼近くの森で過ごしていた。戦いのさなか、黄泉路の入り口で会った歌うたいの力のせいだろうか──千切れかけた右腕は傷がふさがる程度には回復していたし、互いに満身創痍の状態からは脱していたが、それでも体は休息を求めていた。『虚ろ』の消え去った火楼の森なら、コノエの庭のようなものだ。コノエは薬草や木の実を摘み、それを食んで獣の姿になったアサトと寄り添うように眠った。
 アサトが元の姿に戻らないことに対して、消沈する気持ちはまるでなかった。
 アサトがアサトの心でいてくれて、二匹一緒に生きていられる。それ以上に求めることがあるだろうか。
 しかし数日後、狩りに来たのであろう猫に、二匹でいるところを見られてしまった。森の茂みぐらいでは隠せない黒い巨躯を目にして、猫は裏返った悲鳴をあげながら逃げ去って行った。
 このまま、ここにいてはまずい。
 魔物には多大な賞金が掛けられると聞く。時をおかず討伐の者が森にやってくることは間違いない。コノエは、事態を理解していないのか、喉を鳴らして擦りよるアサトを軽く叱咤して、火楼の森をでた。
 そうしてたどり着いたのがいまの根城だ。
 
 獣を狩るにも木の実を摘むにも、あまりうまみのない暗い森。あとで知ったことだが、この森は『虚ろ』の侵食が遅かったせいで、猫たちが押し寄せて獣の類は乱獲されてしまったらしい。『虚ろ』の消え去ったいま、猫たちの狩場は他の豊かな森へ移っているだろう。いわばここは捨てられた森なのだ。
 しかし二匹にとっては庇護の森だった。
アサトは切り立った山肌をその爪で穿って、わずか一日で洞穴をこしらえた。暗くひんやりとした穴倉も、二匹で抱き合えば暖かだった。コノエとアサトはそうして数日、冬眠のようにうつらうつら眠りながら過ごした。
 そうして、二匹の体も回復して季節も春──そして夏へと移っていった。

.

「アサト、窮屈だっただろ?もうすぐ夜になるし、外でこれ食べよう」
 コノエは、そう言うとアサトの前に麻袋をかざした。
 アサトは短く唸ると、コノエの体にそっと手を伸ばし、自分の懐にくるむように抱きこんだ。「──」アサトがまた小さく唸る。これは「しっかり掴まっていろ」の意。
 次の瞬間には、コノエの体は重力に逆らって宙にいた。アサトがコノエを抱きかかえたまま、高く跳躍したからだ。
 ほぼ垂直に切り立った山肌に足の爪をかけ、蹴りあげた反動でまたひと跳び。
 巨石のような体をものともせず、アサトは軽々とそれを繰りかえし、あっという間に崖の頂へと登りつめた。
 アサトはコノエを抱えたまま腰をおろし、そっとコノエの体を自分の膝の上に座らせた。
 目の前にひろがる景色は素晴らしいものだった。
 夕から夜へと移ろうとする空は、紺、橙、薄桃の諧調を描き、眼下の森はすでに夜の色に染まって、どこまでも続いている。見る場所は同じでも、景色は刻々と移り変わって同じものは二度とない。なんて美しいのだろうとコノエは思い、そう思えるのも生きているからだと実感する。
 アサトと共に生きているから────
 しかし照れくさいのでそれは口に出さず、麻袋に手を入れ、なかの木の実を取り出してアサトの口の前に持っていく。
「腹、減ってるだろ?」
 青い目が問い返すようにコノエを覗き込んでくる。「お前は食べないのか?」と、そう言っている。だからコノエは小さく笑うと「食べるよ」と言って、自分も麻袋からひとつ木の実を取り出して齧った。
 それを見てアサトもやっと、コノエの手に舌を伸ばし、掬い取るように木の実を口へと運んだ。
 そうして二匹は、夜空を眺めながらゆっくりと食事をした。
 正直、この量はアサトにとって充分ではないだろう。リビカと同じく、アサトも絶食に耐性はあるが、それでも体の大きさがまるで違うのだ。必要とする熱量もリビカよりずっと多いはずだ。
 本来ならば、アサトが狩りにでたほうがいいのだろう。実際その意を、アサトは唸りにのせてコノエに訴えたこともある。
 しかしこの森には大きな獣がほとんどいない。小さな鼠やトカゲならば体の小さいコノエのほうが狩るのに適している。そして何よりアサトの姿を他の猫の目に触れさせるわけにはいかなかった。いくら猫気が少ないとはいえ皆無ではないのだ。
 ここを追われたら他に安寧の地はないように思えた。
 だから、いまは多少実入りが悪くとも、自分が狩りにでたほうがいいとコノエは思っている。
「ごめんな……アサト」
「────」
 返す唸りは、何が?と問うている。
「お前をあんな狭いところに閉じ込めてさ。自由に動けるのは夜だけなんて……っ

 アサトの舌がコノエの頬に触れ、べろりと下から上へと舐めあげる。打楽器を鳴らすような音がアサトの喉から響いてくる。姿が変わってもそれは猫と同じ。甘く安らかな気持ちがもたらす音だ。だからコノエもそれ以上は言葉を続けず、アサト胸に背を預けて目を閉じた。温かい体、規則正しい心音、やがてコノエの喉からもくるる、と安らぎを告げる音が鳴る。
 言葉は通じないが、伝える方法はいくらでもある。だからだろうか。以前よりアサトの機微に敏感になったような気もする。
 初夏の甘い夜風を受けながら、二匹は想いを伝えるように喉を鳴らして互いに体を摺り合わせた。

 

.
 朝がきて、コノエはまた森へと足を運ぶ。
 いつもと同じように地面の草を踏みしめ、いつもと同じようにあまり育ちのよくない木の実を摘む。
 行動は同じでも、森の顔は日毎に変わっている。
 夏が近いせいか、緑のにおいが日増しに濃くなっている。 羽虫の類が多くなった。野鼠も今日はよく捕まる。荒らされた森もだんだんと豊かさを取り戻しているような気がした。そんな変化がコノエは嬉しかった。
 しかし──この変化は。
 木の幹につけられた十字型の傷。刃物でつけたような綺麗な切り口。断言してもいいが昨日にはなかったものだ。
 そしてその傷は一定の距離をおいて何本もの木につけられている。
 コノエはぞっとなって、辺りを見回した。誰かがこの森に侵入している。そしてそれはただの狩人ではなく……おそらくは剣の腕に覚えのある者。
 目を閉じ、耳を澄まし、気配を全身で拾おうと努めた。しかし聞こえてくるのは、遠くの鳥のさえずりや、草葉に潜む虫の声ばかりだった。
 しかたなく、慎重に辺りを見回しながら、木に傷をつけてない方角へと足を進めた。アサトの許へ戻るには少し遠回りになってしまうが、他の猫と出くわすことだけは避けたかった。
 しかし──もしも出くわしてしまったときは──
 腰に下げた剣に手を伸ばす。そのときには相手を殺めてでもアサトを守らなくては。
 動悸が高まり、脂汗が額を伝う。こんなことでは駄目だ。心を落ち着かせようと、コノエは立ち止まり大きく深呼吸をした。
そのとき──
「おい」
頭上から降る声に心臓が止まりそうになった。「ひっ」と小さな悲鳴が喉から漏れた。ほんの一瞬、体が竦んだその隙に、声の主は木から降り立ち、コノエの目の前に剣の切っ先を突きつけていた。
 硬直した体と同じく、コノエの視線は煌く銀の刃先に縫いとめられていた。しかしふと、その剣に既視感を覚え、顔をわずかに上向ける。その先には──  
 剣の刃と同じ銀色の髪、水面に張った氷のような薄青の瞳。そしてその片方を覆う黒の眼帯。
 その顔には見覚えがあった。忘れようもない。一時は彼に剣を習い、共闘の場に身をおいていたのだから。
「ライ………」
 そう呼ばれた凄腕の賞金稼ぎはコノエを見下ろし、ほんのわずか唇を笑みの形にしならせた。
「久しぶりだな。馬鹿猫」
 不遜な物言いも相変わらずだった。
 体から緊張が解けて、コノエは地面にへたりこみそうになったが、それを堪えてライを睨みつけた。
「なんでアンタがここにいるんだ!」
 精一杯の虚勢だったが、ライにはすっかり見抜かれていたようだった。フンと軽く鼻で笑われ、あしらわれる。
「決まっているだろうが。賞金首の魔物を狩りにだ」
 その言葉に肝が冷えた。やはりライがこの森に来たのは「そのため」なのだ。
「じゃあ、俺も聞かせてもらおうか。何故お前はこの森にいる」
 ライに問われ、言葉に詰まる。この森に猫が来たのも、それがライであることも、そのライにそう問われることも、数刻前にはまるで考えてもいないことだった。狼狽に目が宙を泳ぎ、尻尾がせわしなく揺れた。
「まさかとは思うが…お前も魔物狩りに来たとでも言うのか?」
 後ろ向きになっていたコノエの耳がピクンと立った。
「そ、そうなんだ!俺もそのためにこの森に来て……それで」
「……随分とくたびれたなりだな。どれほど長逗留している?」
 細めた薄青の目に見つめられ、コノエは自分のいまの姿に初めて気がついた。
 森に匂いを残さないよう水浴びは頻繁にしているが、身に纏っているものは、あちこちが綻び、擦り切れていた。確かに昨日今日森にはいった者のなりではない。
 またも口ごもるコノエを前に、ライは小さな溜息をついた。そして先ほどのからかうような声音から一転、恫喝のように低く囁く。
「……お前が魔物をかくまっているんだろう?」
 コノエの全身の産毛がざわりと逆立った。それでも──
「な、なんで俺がそんなことする理由があるんだよ!だいたい魔物と一緒にいてこうして生きていられるわけがないだろう!」
 なんとか反論を試みる。確かにライの言うことは図星ではあったが、コノエがそうする証拠も理由もない。
「べつにお前の理由などは知ったことじゃない。お前がそうしている事実があると俺が判断しただけだ。俺がそう思う理由が欲しいなら、そうだな──ひとつは、この森に魔物がいると知っている者はいない。他の賞金稼ぎの連中はいまだ火楼の森を探し回っている。ここに来たのは俺の独断だ」
 コノエは、息を呑んだ。てっきりこの森に魔物がいるとの手配が出ていると思い込んでいた。しかし、それなら自分だってライと同じ理由でこの森に入ったと言い張れる。
「それともうひとつは──お前から魔物の匂いがすることだ」
「!」
 そんなはずはない。体はほぼ毎日のように池で洗っているし、アサトの体からは特別な匂いは何もしない。ただ陽の月明かりを吸い込んだような、暖かい匂いがするだけだ。
 思わず自分の腕に鼻を寄せ、匂いを嗅いだ。やはりこれといった匂いはしない。
「……つくづく、わかりやすい猫だ。お前は」
 呟くライの声音は呆れを通り越して穏やかにすら聞こえた。はっとなってわが身を省み、血の気が引いた。……ひっかけられたのだ。
 見上げた先のライの瞳がすっと細まる。
「本当の理由は、お前の目だ。お前の目に狩られる側の怯えがあった。それはお前が狩られる者──魔物に近しくあるからだろう?」
 いよいよ返す言葉がなくなり、コノエは窮鼠の気分でうなだれた。
「魔物を引き渡せ──もちろん褒賞金はお前の取り分を多くしてやる」
 その言葉に弾かれるように顔をあげた。そんなことはできない。絶対に。
「ライ!」
 無理を承知で、それでも一縷の望みをかけて、コノエは縋りつく勢いでライに訴えた。
「ライ!あの魔物は、アサトなんだ!」 

 そうしてコノエは、事の経緯をライに話した。
 アサトが闇の力に呑まれ、魔獣へと変わってしまったこと、しかしいまはアサトの心を取り戻していること。誰に危害も加えない、迷惑もかけない。ただ二匹で静かに暮らしていたいだけだと、コノエは切々とライに訴えた。
 ライはそれをじっと腕組をして聞いていた。しかしコノエが言葉を結び、小さく息をつくと、それが合図と言わんばかりに
「で?それが何だと言うんだ」
 冷厳な一言を投げ返した。
「ライ……!」
「賞金首を始末するのが俺の仕事だ。それが魔物でなく猫だろうと、俺はそいつの中身などどうでもいい。たとえそいつに幾許かの善の部分があろうと、俺には関係ないことだ。懸賞金がかけられているものの首を取る。俺の為すべきはそれだけだ」
 甘さの欠片もない物言い。しかしそれは冷淡ではない。剣を振るってきた時間によって研磨された雄の鋭さだった。コノエにもそれはなんとなくわかった。情にいちいち動かされていては、賞金稼ぎとしてやっていくことはできないだろう。だからライに対して憤ることはできなかった。しかしそうだといって納得できるわけもない。
「お願いだ…ライ。虫のいいことを言っているのはわかっている。俺にできることなら何でもするから……だから」
 ライの胸元にかかるマントの端をつかみ、コノエはなおも言い募った。憮然と自分を見下ろす青白磁の瞳を見つめ、少しでも、少しでも自分の思いがわかってもらえればと、その一心で。
 ふ、とライの唇から笑いが漏れた。嘲笑にも似たそれに、やはり駄目かとコノエは唇を噛む。しかし。
「見逃してやってもいい」
 思いもよらない言葉に耳が立つ。
「ライ!」
「ただし」
 言いながら地面に突き立てていた剣を背に掛けた鞘へと収める。
「お前が、もう一度俺の賛牙として、俺の役に立てるというのなら、だ」
「……!」
「お前が賛牙として俺についてくるならば、魔物のほうは見逃してやる。森の奥で好きに暮らせばいい。この森に魔物がいると言うことも黙っていてやろう」
「………」
 確かにそれぐらいの「取引き」がなければ、この揺ぎ無い雄に見逃してもらうなどできないだろう。しかし、それも飲めない条件だった。願いは常に、共に在ることだ。
 いっそのこと……ライを。コノエが腰の剣に手を伸ばそうと、ほんのわずかに動かした瞬間。
 短剣を携えたライの左手がコノエの喉元へと押し当てられた。
 まさに瞬目の間だった。
 「馬鹿なことを考えるな。言っておくが、お前がいなくとも魔物の居所ぐらい探し当てられる。遅いか早いかの違いだけだ。それともここで死にたいか?」
 剣呑な言の葉とは裏腹に、ライの声音はわずかに愉色を含んでいた。思慮の足りない子供に苦笑するかのような。
  わかっていたが、まるで叶う相手ではなかった。相討ちにすらならないだろう。自分の不甲斐なさにコノエは小さく呻いて頭を垂れた。
「歌を歌ってみろ」
 数瞬の沈黙の後、ライが言った。
 ……やはりアサトを救うには、それしかないのだろうか。
 コノエは言われるままに、目を閉じ心の奥底に意識を集中させた。過去に歌ってきた調を思い描き、それを解き放とうとする。
 しかし、光の奔流はやってこなかった。
 二度三度と同じ手順を頭の中で繰り返す。しかし何度やっても同じだった。閉じた目の闇からはいっこうに光は生まれず、焦りで目の裏が軽く痛んだ。
「歌を忘れたか」
 ライの冷ややかな声が降る。
「わからない……リークスとの闘いのあと、一度も歌ってなかったから……」
 緊張に口が渇いて掠れた声がでた。賛牙としての自分の価値が失われれば、アサトを救う最後の望みも消えてしまう。
 ライがコノエを見つめている。何もかもを見透かすような居心地の悪くなる視線だった。このまま斬り殺されてもおかしくはないのだ。コノエは緊張に立ち竦む。握り締めた掌が汗でぬめった。
「七日月の間、待ってやる」
 ふいに放たれた一言。理解ができずにコノエは顔をあげた。
「え……?」
「わからないか?陽の月が七回昇って沈むまで、魔物を狩るのを待ってやると言っているんだ」
 ますます意味がわからない。
「歌を本当に忘れたわけではないだろう。こういうのは剣と同じで、時間を空けるとあっという間に調子を忘れる。特にお前のような未熟者は、だ」
 ムッときたが、いまは言い返すことはできない。
「考えるに、やはり貴重な賛牙をこんな森で眠らせておくことはできん。七日月の間にお前が歌を取り戻せば、俺はお前を賛牙として連れて行く。取り戻せなければ魔物の首をとる。幸いこの場所はまだ他の賞金稼ぎには知られてないからな。それぐらいの間、待ってやってもいい」
 相も変らぬ不遜さにコノエは呆れた。コノエの意思は欠片も考慮していないくせに譲歩してやっているかのような物言い。しかしそれでも、その申し出はありがたかった。七日月の時間があれば、何がしか好機が見つかるはずだ。
 しかし────

.

「~~~~………」
 アサトが低く、威嚇の唸りをあげている。
 無理もない。顔を合わせれば言い争ってばかりいた相手が、自分の住処のそばで野営の準備をしているのだから。
 銀髪の賞金稼ぎは、コノエとアサトの住む洞穴の入り口近くに、木の枝と布で簡単な天幕をこしらえている。その様子を少し離れたところで、コノエは半ば呆然とアサトは牙を剥きながら見つめていた。
「……なんで、アンタがここで寝泊りするんだよ。街に戻るんじゃなかったのか」
「馬鹿か。そんなことをしたらお前らは逃げようとするだろう。待ってやるとは言ったが、見張らないとは言っていない。それにお前が歌を取り戻すには俺の指南も必要だろう」
 まったく尤もな道理だった。
 コノエはしかたなく納得したが、可哀想なのはアサトだった。二匹きりの幸せな生活に闖入者が舞い込み、しかもそれがライときては。コノエはアサトを宥めるように何度もアサトの背中を撫で、その黒い毛を梳いた。
「アサト。少し早いけど水浴びに行こうか」
 コノエがそう言うと、アサトは小さく頷きコノエの体を自分の腕に乗せて抱えあげた。そしてそのまま肩にコノエを座らせると、林の外へと歩き出す。
「どこへ行く」
 背後から咎めるようなライの声がする。コノエは顔だけで振り向くと
「水浴びだよ。アンタが俺たちを見張るのは勝手だけど、俺たちはいつもどおりに好きにさせてもらうからな」
 精一杯棘を含ませ言い返した。アサトが同調するように短く吼える。そうだ。べつにライがいたところで気にすることはない。見張られるのは気分のいいものではないが、何も後ろ暗いことはない。普段の自分たちのままでいれば、ライもわかってくれるかもしれない。アサトが賞金首になるような、害なす存在ではないことが。
 草木枝葉をかきわけて山道を進む。しばらく歩くとわずかに空が開けて、目の前に森の緑をカガミのように映す水面がひろがった。
 そこは湧き池にしては大きく、だが澄みすぎた水に、生物の類は乏しかった。しかし近くに水の得られる場所は本当にありがたい。帰りには水を汲んでいかなくては。
 コノエが草むらに服を脱ぎ落としている間に、アサトはざぶざぶと池の中央にまで進み、コノエを促すようにひと鳴きする。
「ちょっと待ってろよ」
 コノエもようやく素裸になり、片足を池の水に浸す。水の冷たさに産毛がわずかに逆立ったが、かまわずに飛び込んだ。池の底は意外に深く、あっという間にコノエの体は肩まで水の中に浸かった。ゆっくり手で水を掻きながらアサトのもとまで進む。アサトは巨躯を屈めて、待ちきれないと言わんばかりに向かってくるコノエの体を引き寄せて抱きしめた。水の中でもその体は熱く、コノエは心地よさに思わず喉を鳴らした。そして頭をアサトの胸板に摺り寄せて、コノエはアサトの毛づくろいを始めた。アサトの広い体をすべて舐めてやることは無理だが、それでもコノエは思いをこめて小さな舌をアサトの黒い毛に走らせた。頭上でアサトの喉がぐるると雷鳴のように鳴った。

 ふいに背後で草を踏む音がした。
 コノエが慌てて振り返ると、池の淵にライが立っている。
 ここまで見張りにきたのか──少々忌々しい気持ちでライを睨むと、ライはおもむろに装備の金具をはずし、衣服を脱ぎ始めた。
「アンタ!何やってるんだよ!」
「俺が水浴びをしてはいけないのか」
 言いながらもライは上衣を脱ぎ、白いが引き締まった体を晒していた。なんとなく決まり悪い気持ちになってコノエは目を逸らした。
「べつに……悪くはないけど、何で、俺たちと一緒に浴びようとするんだよ」
「馬鹿が。無防備な状態はお互い一緒のほうがいいだろう」
 確かに──ライが剣を持っていない時を狙って逃げたり襲ったりすることもできたはずだ。しかしコノエはライに言われるまで、そんなことは微塵も考えていなかった。自分の馬鹿さかげんに恥ずかしくなる。

 しかしライはコノエの思惑を知ってか知らずか、脱いだ服の上に二本の剣を置くと、ゆっくりと池の水に体を浸からせた。手で水をすくい腕にかけ、優雅ともいえる仕草で毛づくろいを始める。
 アサトの喉から響くものが唸りへと変わった。コノエが顔を上向けると、アサトが牙を剥いてライを睨んでいる。コノエはアサトの気を鎮めようと、また毛づくろいを始めた……が。
「あ……っ」
 ふいにアサトの大きい手に抱えあげられ、その体をアサトの眼前まで持ち上げられる。そしてアサトの長い舌がコノエのわき腹を這った。
 舌はわき腹から胸を滑り、コノエの首筋までを一息に舐めあげる。もちろんこれは毛づくろいで、いつも水浴びのときにされてはいるのだが、今日はすぐ傍にライがいる。
「アサト……よせって」
 身を捩って小さく制止の声をあげる。しかしアサトはかまわずに、さらに舌でコノエの頬をくすぐった。アサトの舌は猫よりも若干ざらつきが少なく、熱くぬめる舌は、ただの毛づくろいで済まされない気持ちをコノエにもたらせるのだ。
「アサ……トっ、やめ」
 荒くなる息を抑えて、コノエが舌から逃れるようにもがくと、唾液で濡れそぼった体がアサトの手のなかでずるりと滑った。
 あ、と思う間もなくコノエの体はアサトの手を離れて、盛大な水音をたてて池に落ちた。
「───────!!」
 アサトが森に響き渡らんばかりの咆哮をあげて巨躯を水に潜らせ、数瞬の後、コノエの体を抱きかかえて勢いよく水から飛び出した。
 高くあがった水飛沫は、ライの上にも雨のように降りそそいだ。無言で眉だけを不機嫌そうに顰める。
 コノエは三、四度咳き込み、大きく息をついてアサトを見上げる。奇妙に頬骨の盛り上がった魔獣の顔は表情が伺いにくいが、それでも深い眼窩の奥に宿る目の色は、ひと目でわかるほどに悄気かえっていた。
 それがあまりにおかしくて、アサトに悪いと思いながらもコノエは吹き出し、アサトの胸板に顔を寄せてクスクスと笑った。
 アサトは、不可解そうに細く唸っていたが、コノエの態に安心したのか、やがて喉を鳴らし、コノエの濡れた髪をペロリと舐めた。今度は抵抗せずにコノエはされるままになった。そしてお返しにアサトの胸の毛も繕ってやる。
 そんな二匹の様子を、白猫は呆れたように眺めていた。
 

 .

 夜が来て、二匹はいつも通りに洞穴で抱き合って眠る。違うのは外にライが控えていることだが、それはもう気にしてもしかたがない。
 ライは……賞金稼ぎである以上に闘牙なのだとコノエは思う。
 本当に賞金首の魔物が狩りたければ、いくらでも機があったはずだ。たとえば先刻の水浴びのとき、いまこうして眠っているとき。油断している隙をついて自分とアサトの首を掻くことなどたやすいのではないか。
 しかしライは、それをしない。
 彼は約束してくれた。七日月まで待ってやると。
 ライの、闘牙としての誇り。それが彼を狡猾とは程遠い存在にしている。しかし自分は、どうだろうか。アサトを守るために、アサトと共にあるために、その誇りに唾する行動にでるかもしれない。たとえば……ライの賛牙になると言って油断させた隙に……。
 そこでコノエは考えるのをやめた。そんなさもしいことを考えるのは自分に力がないからだ。剣をふるって正面からライと渡り合いアサトを守れるなら、それが一番いい。そうできない自分の弱さにコノエは悲しくなる。
 しかし、とにかく、まだ時間は残されている。いまは眠ろう。そして七日月の間に何かいい案が浮かべばいい。

 朝がきて、コノエはまた森にはいる。そして今日からはライも一緒だ。
「……アサトを見張らないでいいのか?」と問うコノエに、「あれは、お前を置いて逃げたりはしないだろう」と一蹴された。確かにその通りだったし、アサトとライは一緒にしておかないほうがいいかと思った。あの二匹が対峙して生み出す不穏な空気は、闇の力もかくやとばかりの禍々しさだ。
 コノエは数歩後ろを歩くライの存在を気にしないよう努めながら、いつものように木の実や山菜を狩っていった。
 しばらくすると、背後でわざとらしいため息が聞こえた。その声量はあきらかにコノエに聞かせるためのもので、眉根を寄せて振り返ると、コノエ以上に憮然としたライの細められた目とぶつかった。
「………何?」
「お前は、いつもこんな効率の悪い狩りをしているのか」
「しかたないだろ!この森には生き物は少ないし、木の実も生りが悪いし」
「確かに、鹿や猪の類はいないな。大抵どこの森にもいるものだが」
「……なんでも『虚ろ』の侵食が遅かったせいで、狩り尽くされてしまったって……」
 コノエがそう言うと、ライはフンと鼻を鳴らして空を覆う枝葉の天井を見上げた。そして隙間から覗く陽の月を見て、しばらく思案するように黙り込む。
 訝しさにコノエが声をかけようとすると、ライは突然踵を返し森の奥へとはいっていく。迷いのない足取りは、何か目的があることを思わせた。コノエも慌ててその後を追う。
 二匹は無言で森の中を進んだ。陽の月がさらに高みにあがり、夏の光を木々の隙間に差し込ませるようになった頃、ようやくライはその足を止めた。
 激しい水音がする──ああ、あの場所か。コノエも思い至る。一応森のなかは一通り足を伸ばしているのだ。
 四方を覆う木の前方だけが開けたその場所は、急流を挟む深い谷だった。
 灰白色の岩肌が剥き出しになった谷向こうには、近いようで遠い距離だ。アサトの跳躍をもってしても渡り移ることはできないだろう。
「向こうの山には獣も多いだろうな……」
 コノエが歯噛みする思いで呟く。実際この場所で向こうの谷を下りる鹿を何度か見ている。
 コノエの呟きにライは応えず、無言で谷底へと目を向けていた。つられてコノエもそちらを見る。大地の裂け目のような岩間を白い飛沫をあげながら流れる川。見ていると吸い込まれるような心地になって腹の奥がむずかゆくなる。
「下のほうは、いくらか距離が狭まっているな」
 突然のライの呟きに、コノエはもう一度谷底へと目をやる。
 確かに岩がせり出して、谷向こうへの距離が短くなっている箇所がいくつかあった。それでも自分に渡り移ることは無理だろう。しかしアサトなら…。
 考えて、コノエは小さく首を振った。
「駄目だ…。アサトなら行けるかもしれないけど、谷向こうには他の猫もいる。アサトを他の猫の目に触れさせたくない」
コノエが呟くと、谷底を覗いていたライがゆっくりと振り返り、心底呆れたように眉間に皺を寄せた。
「本当にお前は馬鹿猫だな」
「なっ……何で!」
「何故、こっちが向こうに渡ることを前提にしている。獣のほうをこっちの森へ呼べばいい」
「え……?」
「あの奴隷は図体が大きいだけのただ飯食らいか?奴隷は奴隷らしく少しは働かせろ」

 そして二匹は一度洞穴まで戻り、アサトを同じ場所まで連れてきた。
 アサトは茂みを踏みつぶし、肩にかかる枝木をへし折りながら森を進む。静かな森がにわかに騒がしくなり、コノエは内心穏やかではない。
「誰も来なきゃいいけど……」
 コノエがひとりごちると、耳ざとく聞いていたらしいライが「心配するな。そのときは俺が斬ってやる」と平然と言うのでよけい肝が冷えた。冗談なのかもしれないが、この白猫が言うと、とてもそうは聞こえない。
 谷にさしかかる少し手前でライが立ちどまり、何かを物色するように辺りを見回す。そして「これがいいか」と呟くとアサトのほうに向き直った。
「おい。奴隷」
 ぶしつけな呼びかけにアサトは唸りで返す。しかしそれを軽く受け流し、ライは一本の大木を指し示す。
「この木を引き抜け。お前ならできるだろう」
 言われて、アサトとコノエは同時にその木を見上げた。幹はコノエの両腕がなんとかまわるほどの太さ。しかしまっすぐに伸びたそれは、森の天井を突き破らんばかりに高々としている。コノエが「できるか?」と目で訴えると、アサトはうなずき、その幹に両手を回し爪を立てた。
 唸りとともにアサトの肩の筋肉が盛りあがる。爪がバリバリと木肌に食い込む。 
 コノエの足元が揺れ、地中に張り巡らされた根が、血管のように地面に浮かびあがってくる。
「~~~~~………!!!」
 アサトが森に轟く勢いで吼えた瞬間、大木は土の塊を盛大に弾き飛ばしながら引き抜かれた。同時にあたりの木々も薙ぎ払われ、哀れな鳥が悲鳴のような鳴き声をあげて飛び去っていった。
「アサト!」
 コノエが喝采にも似た声音で呼びかけると、アサトは満足そうに喉を鳴らした。
 ライも少しは感心したのか、白眉を山なりにあげ目を細めた。
「よし。じゃあその木を谷まで運べ」
 物言いは相変わらず横柄であったが。

 引き抜かれた大木は、ライの指示のまま谷底へと落とされた。
 しかし川へは落ちず、先刻目を留めていたせり出した岩に引っかかり、谷と谷を結ぶ橋になった。ライが足元の大振りな岩を拾い、その木に向かって投げ落とす。岩をぶつけても木はびくともせず、どうやらしっかりと岩間に収まったらしい。
「うまくいけば、三日月もすれば鹿が渡ってくる。こちらの谷には鹿の好物のアメゴケが生えているからな」
 谷底を見ながら、コノエの胸はわずかに高鳴っていた。それは未来に対する期待でもあるし、ライに対しての……尊敬の気持ちでもあった。
「アンタ……すごいな。俺には全然考えつかなかった」
「お前の考えが足らないだけだろう。しかし考えついたところで……これに関しては俺だけじゃどうにもならなかったがな」
「それって……アサトのおかげだってことだよな?」
「そう思いたければ思っていろ」
 言い捨ててライはまた森にはいってく。コノエとアサトは顔を見合わせて笑いあった。端で聞けば獣の遠吠えのようなそれも、コノエの耳には優しく響いた。

 その後二日月の間に、コノエはライに色々なことを教えられた。
 鳥をくびる罠のこと。熟れていない木の実の食べ方。賞金稼ぎとして長く野宿することも多いライの、森に関する造詣は深くコノエは感心するばかりだ。
 そしてその合間に剣の訓練もあった。歌を取り戻すには体が闘いを思い出すことが必要だという。ライと剣を交え、体のほうはだんだんと勘を取り戻していったが、歌のほうはそれでもいっこうに蘇らなかった。
「なんでだろう……」
 胸の奥に調はある。しかしそれを解き放つことができない。いままで何故それが当たり前のように出来ていたのかが不思議なくらいだ。コノエがもどかしさに舌打ちするとライは
「焦るな。賛牙の能力はもとより不安定なものだ。剣と違い熟練より閃きのほうが勝る部分だ。とにかく心をできるだけ軽くしていろ」
 いつになく真摯な口調で言った。
 そう言われても、困る。だいたい自分を追いつめているのも不安にしているのもアンタじゃないか。
 コノエは、そう思ったが口には出さず、小さく頷いて足元の草を見つめた。

 ライの言うとおり、三日月めに、森に鹿が渡ってきた。
 谷近くの森で木の皮を食んでいた鹿を、コノエが追いたてライが剣で仕留めた。
 本当に久しぶりの大物だった。もちろん先々、獣を森に居つかせるために頻繁に狩ることはできないが、今日ばかりはいいだろう。
 二匹で鹿を担いでアサトの待つ住処へと戻った。
「ほら!すごいだろうアサト!今日は腹いっぱい食べられるからな」
 出迎えたアサトの前に鹿を横たえて、コノエは笑った。
 鹿の片足だけを切り分けて、残りはアサトに渡した。アサトの食べっぷりは実に見事で、はらわたから骨までバリバリと音をたててあっという間に食べ尽くしてしまった。やはり相当に空腹だったのだろう。いままでそんな素振りを微塵も見せていなかったアサトにコノエは少し胸が痛んだ。
 残りの肉もアサトにあげてしまおうか……。コノエが肉塊を見つめ逡巡していると
「馬鹿なこと考えるな。お前にだって血肉は必要だろう」
 いつもは決して洞穴にはいってこないはずのライの声が頭上に降った。驚きに振り返るとライは身を屈めコノエの前に置かれた鹿の足をひょいと担ぎ、洞穴の外へと歩きだした。
「お、おい……ライ!」
「いいからそこで待っていろ」
 言われてしかたなく、その場で待った。隣でアサトが不安げに唸る。自分の馬食ぶりを恥じているようだった。コノエは尾でアサトの体を軽く撫で、気にするなよと笑ってやった。
 しばらくすると、洞穴の外から何やら香ばしい匂いが漂ってきた。コノエが匂いにつられて外に出ると、ライが天幕の近くで火を熾していた。 一瞬、怖気が走ったがこの距離なら我慢できないこともない。
 コノエの気配に気づいたのかライが振り返る。そして火先にかざしていた木の枝をコノエに突きつける。先端には肉の固まりが刺さっていて、こんがりと焼けていた。脂のはぜる音にコノエは思わず唾を飲んだ。
「食え」
「あ……ああ」
 肉を受け取って洞穴に戻ろうとしたが、それも何か素っ気無いような気がした。   
 少なくともライは、コノエたちに協力するような義理はないのだ。それなのに彼は尽力を惜しまない。少しだけ、もう少しだけ気持ちを形にしてもいいのではないだろうか。
 しかし何をどうすればいいか、コノエにもよくわからなかった。しかたなくコノエはライから少し離れた地面に腰をおろし、そこで肉を齧り始めた。ライの耳がコノエの様子を伺うように、ぴくりと後ろを向いた。しかし振り返らずに言葉だけを投げてよこした。
「がっついて喉に詰まらせるなよ」
「うるさいな……」
「旨いか」
「……ああ、火の通ったもの食べるの、久しぶりだ。いつもは干したり薬草に漬け込んだものばかりだし……」
 食べながら喋っていたせいか、熱い肉汁が喉に飛び込んできてコノエはむせた。
 しばらく咳き込んでいると呆れたようなため息が聞こえてきた。
言い返そうとして、やめた。ライに聞きたいこと、言いたいこともいくつかあったが、結局どう言葉にしていいか、わからない。洞穴に戻ろうと立ちあがり、数歩歩いてコノエは立ち止まった。やはり、これだけはどうしても言わなくては。
「あの……ライ。ありがとう……」
 ライの応えを待たずにコノエは小走りで洞穴に戻った。だからライの太い尻尾が左右に大きく揺れたのをコノエは知らない。
 そしてその少し前に、二匹の様子をアサトが低く唸りながら見ていたこともコノエは知らなかった。

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