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2009年5月 4日 (月)

美しい歌 後編

コノエにとって、その夜は心地よく眠れるはずだった。
 腹はほどよく満たされていたし、夏の甘い夜風が洞穴にわずかに吹き込んでさらさらと気持ちいい。寄り添うアサトの心音は規則正しく、赤ん坊のようなまどろみを誘う。
 頬に濡れた感触が走った。アサトがコノエの頬を舐めたらしい。「…ん……」と短く応えてコノエはまた眠りのなかに沈んでいく。
 しかしアサトはそうさせてくれなかった。
 同じところを舐められる。二度、三度と。長い舌はやがて首筋に降り、鎖骨をなぞり、さらには服の襟から胸にまで侵入しようとしていた。
「ん……う、ん」
 もはや感覚はやり過ごせないものになっていて、コノエは重い瞼をあげた。
 目の前にアサトの顔があった。
 暗い洞穴のなか、その顔はわずかな陰影を浮かべるだけで表情はわからない。もとより表情のわかるような造作でもない。しかし、目が。
 アサトの目だけが闇のなかで爛々と光っていた。元のアサトと同じ紺碧の瞳、しかし今コノエを見つめるそれは、獣のような純粋な暴虐の光を湛えていた。
「あ………」 
 コノエの体がある予感に竦む。以前にも何度かこんな夜があった。……アサトの体を欲望が駆け巡り、その解放の術をコノエの体に求めている。
 本当にアサトがすべての欲求をコノエにぶつけたら、コノエは生きていないだろう。だから二匹の営みはアサトの強い自制によってようやく成り立つものだとコノエもわかっている。
 それでも、猫同士の交接とはかけ離れたそれは、コノエをひどく苛むものだ。その記憶がコノエを怯えさせる。
 しかし──
「アサト……欲しいのか?」
 そっと手を伸ばし、コノエはアサトの頬に触れる。獣の目から嗜虐の光が消え、か細い唸りが喉の奥から響いてくる。それはアサトのためらいを表す響きだ。
 自分のなかの怯えを精一杯押さえこんで、コノエは笑った。そして自分から服を脱ぎ落として、アサトの胸に擦りよった。
 魔獣の体に猫の心。それがどういう心地なのかは、わからない。けれど、感情の奔流に引き裂かれそうになる感覚はコノエにも覚えがある。
 アサトもそんな思いをしているのだ──魔獣の本能に必死に抗っている。
 だからコノエは「いいよ」と言ってやる。大丈夫だから。受け止めてやるから。
 仰臥するアサトの上に乗ってその黒い体毛に裸の胸を擦り合わせていると、ぐうう、と喉を潰すような唸りが漏れて、股間の体毛をかきわけるように赤黒い肉茎が漲り出てきた。
 普段は祖先のように体内に納まっているらしいそれは、コノエの体のものとまるで違う。ぬらぬらとした粘液にまみれて、大きさは大型種の雄の腕ほどもある。もちろんそんなものが、コノエの体にはいるわけがない。
 コノエは両手でアサトの巨茎をつかむと、粘液の滑りを借りて上下に扱きたてた。それだけでは足りないだろうと、口も使う。咥えこむことすらできないので、先端を舌で舐めた。
「んっ……む…うっ…ん、んん」
 とくとくと先端から溢れる生ぬるい粘液をコノエは一生懸命舌で掃った。絶対にコノエと繋がることのできないそれ。哀れでいとおしい雄茎をコノエは足の間にはさみ、自分のそれと擦り合わせた。
 口で吸い、手を動かし、腰をくねらせ、コノエは全身を使ってアサトの雄を愛撫した。しかしそれは滑る舌に体中を舐められるような心地でもあった。いつの間にか全身は粘液にまみれ、コノエの息も荒くなっていく。
「あ……、は…っう……ああ…」
「~~……~……」
 コノエの喘ぎと獣の荒い息が重なり合う。
 このまま……アサトが達してくれればいい……そう思いながらコノエはアサトの熱を懸命に追い立てた。
「────!」
 穴倉に獣の短い咆哮が響いた。次の瞬間、ズルリと濡れた音がしてアサトの内股から紅色の「何か」が伸び出てきた。
 何本もの、はらわたにも似たそれは、意思あるもののように蠢き、コノエの体に絡みついてくる。初めてそれを見たときのような恐怖はないが、それでも蛭が吸いつくような感触に生理的な怖気が走った。
「アサト……っ……い、やだっ……」
 コノエはかぶりを振って抵抗したが、ぬめる触手は、地中から掘り出された蚯蚓が逃げ場を求めるように這いまわった。やがてそのうちの何本かが、コノエの口へ、そして尻の窪みへと辿り着く。
「あ……っ、や、…うあっ」
 肉色のそれが我先へとばかりに、押し合いながらコノエのなかにはいりこもうとする。歯を食いしばり口からの侵入を拒んだが、下肢に巻きついた触手のほうは、すでに粘液にまみれたそこにじりじりと食い込んできた。
「……っく……」
 コノエは固く目を閉じ、尻に力をこめた。しかし、柔らかく弾力のあるそれは、形を自在に変えながら、粘つく音をたてて侵入する。
 先端の吸盤のような突起が、コノエの腸壁の粘膜を擦りあげた。
「うう……っ」
 おぞましい感覚に、目から涙がにじむ。こみあげる吐き気を唇の端から息を逃すことで堪えた。しかし次の瞬間、柔らかかったはずのそれが、ぼこりと瘤のように固く膨れてコノエの内を大きく圧迫した。
「あ!あぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!」
 目の前で火花が散るような衝撃に思わず叫んでいた。その隙をついて口のなかにまでそれがはいりこんできた。コノエの口をいっぱいにこじ開け、喉の奥まで犯そうとする肉の塊。息苦しさに頭に靄がかかる。
 しかし、この苦しさが長く続くものでないと、コノエは知っている。もうすぐ、このはらわたのような器官から与えられるものに、コノエの苦しみは快楽へと成り代わる。
 最初からすべてを委ねてしまえば楽だったろう。
 けれど、だからこそ抗いたかった。
 アサトの肉も欲も、全部素のままの自分で受け入れて、感じたかった。
 それが苦しみでも怖気でも、すべて、ありのままに。
 舌に苦みがひろがった。銜え込んだ器官がどくどくとコノエの咥内に体液を排出している。臀孔を犯しているそれも同じことをしているのか、腹の奥が熱くなった。
 ……おそらく本来は、捕食されるものを麻痺させるためのものなのだろう。その体液が体に染みこんだとたん、コノエの体は熱く痺れ、視界が白く霞みだす。
 食虫植物に溶かされる哀れな虫を、コノエは連想した。
 このまま溶かされて吸い尽くされ、アサトの血肉になれたら、どんなにかいいだろうか。二匹を隔てる体がなくなり、本当にひとつになれたら……
 ……駄目、だ。 
 それじゃ、意味が、ない。 
 何が?
 ……わから、ない。
 アサト。
 ア、サト……。
 コノエの思考はもはや形を成さなくなり、意味を持たない言葉が頭を巡るばかりだった。
 気づけば、肉の傀儡はコノエの体とアサトの肉茎を一緒に括るように巻きついていた。感覚は麻痺して、どこに何が触れているのかわからなくなっていたと思っていたのに、腹から胸板に触れるアサトの雄の部分はいやに熱く、これだけが性器なのだとコノエに意識させる。
 性器でない部分──巻きついた肉がコノエの体を上下に揺する。内股から腹、胸、胸から、腹、内股、粘液にまみれた巨茎がコノエの体を滑っていく。
 体全体でアサトの性器を扱いているようなものだった。朦朧とする頭のなか、アサトの荒い息が遠くに聞こえた。
「あっ……あ、ふぁ、……っ」
 皮膚を這う、蛭のような感触ももう不快ではなかった。生臭い粘液も、じんじんと疼く後孔を蠢きながら出いりするものも。
 だらしなく開いたコノエの口から舌が垂れ、よだれが滴った。いまの自分は、もう猫ではない。この体に巻きつくものと同じ……肉の塊。アサトの欲を満たすための、性器のようなもの。
「うあっ……あ、あっ」
 体が瘧のように震えた。どうやら射精してしまったらしい。しかし、全身で快楽を享受しているいまの状態では、それは些細なものでしかなく、体の熱はそんなものでは到底引かなかった。
 腹に触れているアサトの雄茎が、ひときわ大きく膨れあがる。幹の部分がきゅう、と硬くなった。一拍の間をおいてアサトの咆哮が狭い洞穴に響き渡った。
「─────!」
 次の瞬間、アサトの性器が震え、その先端から白濁が迸った。ひとつ体を震わすごとに吐き出すそれは、尋常でない量だった。そして吐精は、このまま終わらないのではと思うほど長く、魔獣の白い血は、コノエの顔、体に容赦なく降り注いだ。
 しかし、それもいまのコノエには快感だった。熱いそれが体にまぶされるたびにコノエの体も震え、性器に滴ると同時にコノエもまた達してしまった。
「ア、サト……っ、ん、アサト……」
 うわごとのようにアサトの名を呼んだ。返されるアサトの唸り。
しかし、まだ終わりではない。
 あれだけの量を吐き出しても、アサトの雄は萎える気配をみせなかった。
 コノエの精液にまみれた体は、また粘つく音をたてながらアサトの雄に奉仕する。コノエの頭に白い靄がかかる。天も地も快も不快もわからなくなり、ただ温い泥のなかで溺れているような心地だった。
(あ……あ……あ……)
 体の内と外を濡らす、ぐちゃぐちゃとした音がゆっくりと遠ざかり、やがてコノエの意識の糸はぷつりと切れた。

.

 目覚めると、目の前に黒い毛に覆われた胸板があった。
 周りを見回し、すべてが終わったことを知った。アサトの性器も触手もいまは体内になりを潜め、温かい体だけがコノエの体を包んでいた。
 アサトを目覚めさせないように、コノエはゆっくり半身を起こした。
 粘液と精液にまみれた体はアサトが毛づくろいしてくれたのか、ひととおり綺麗になっていた。しかしそれでも拭いきれないべたつきが体のあちこちに残っていたし、触手に犯された後孔はまだ滑っていた。
 体を洗いに行こう……そう思い、そっと立ちあがると体中が軋んだ。
「……っ」
 呻きをこらえ、衣服を身につけ、静かに洞穴を出た。
 外の空気は薄青に染まって、夜明けが近いことを知らせていた。
 草の匂いのする新鮮な空気を吸って、湧き池のほうへと足を向け、立ち竦んだ──
 ライが、岩壁に背をもたらせて立っていたからだ。
 てっきりまだ天幕のなかで寝ていると思っていた。
「お、起きてたのか……」
 語尾が消え入りそうなほど小さい呟きを落とすと、ライはコノエを横目で睨み、憮然とした声で
「近くであんなに騒がれて寝ていられるか」と返してきた。
 コノエの顔がカッと熱くなった。やっぱり──気づかれていた。
 もちろん、ライの存在をまったく考えてないわけではなかった。しかし、ライを気にしてアサトの求めを撥ねることだけはしたくなかった。普段どおりでいようと決めたのもコノエであったし、アサトとの行為を「恥」とは思いたくない。
 とはいえ、わずかに記憶に残る数刻前の自分──体中をわたに弄られ喘ぐ姿を思い返し、さらに顔に血がのぼる。
「……ごめん……」
 それだけ呟いて、ライの前を通りすぎようとしたが
「お前は」
 ライの声に足を止める。
「え……?」
「お前は、アレが悦くてあの魔物から離れられないのか?」
「──!──」
 淡々としたライの呟きには、うっすらと侮蔑の色がにじんでいた。息が詰まって、腹の底が冷えた。まるで氷の刃を差し込まれたような気色だった。
 何か言い返そうと思っても、コノエの唇は震えるばかりで言葉をつむぐことができない。キンと鼻の奥が痛くなって初めて自分が泣きそうになっていることに気づいた。
「………」
 いま一度、顔をあげてライを見る。冷たい水色の眼。わずかに眉根がよっているのは、自分に対する嫌悪からだろうか。
 だめだ……!
 俯いて踵を返し、コノエは湧き池に向かって走り出した。がむしゃらに茂みをかき分け、枝で腕にすり傷を作っても、止まることなく走り続けた。
 湧き池に着き、むしるように服を脱ぎ捨て、コノエは水の中に飛び込んだ。
 体のあちこちに残る凝った粘液を、手でこすり落とす。
 両手で水をすくい、顔に叩きつける。何度も何度も。しかし何度やっても水の冷たさは目から流れる熱いものに流されていく。
「……っう、うっ」
 食いしばった牙の隙間から嗚咽が漏れた。泣きたくない、そう思ってももう止めることはできなかった。
 先刻のライの言葉を思い返す。
 ライは──アサトを「魔物」と言った。
 昨日までは「奴隷」と言っていた。それも随分な呼び方だが、アサトがいまの姿になる前、猫同士でいがみあっていた頃に、ライはアサトをそう呼んでいたのだ。
 ライがアサトをアサトとして見ていてくれたのだと、コノエは今更気がついた。
 しかし──いまは。 
 アサトと睦みあう自分の姿、ライの目には、どんなおぞましいものに見えていたのだろうか。
「あ、うあぁっ……っ」
 何が悲しいのかも、もうわからなくなっていた。ただライの言葉は、コノエの心を支えていた柱の一本を大きく挫いてしまったのだ。何かぽっかりとしたものが胸に空いて、そこから覗く闇が怖ろしくてコノエは涙を止められなかった。

.

 水浴びを終えて戻ると、ライはもう森にはいって行ったようだった。コノエはまだ体が休息を求めていたので、また洞穴のなかでアサトと眠ることにした。
 寄り添うアサトがときおり気遣うように頬を舐めてくれて、その心地よさはコノエの悲しみを和らげてくれた。喉を鳴らし子猫のように体を丸め、コノエはアサトの懐に納まってとろとろと浅い眠りをくりかえした。
 目を覚まし、洞穴を出ると陽の月は空の真上に来ていた。時間は昼を少し過ぎたところか。
 昨日充分食べたことだし、狩りはいいかとも思ったが、疲れた体が木の実の類を求めていた。クィムとまではいかなくとも、何か酸味のある果実が食べたかった。
「すぐに戻るから」とアサトに言い残し、コノエは森にはいった。ライが森のどの辺りを回っているのかは知れないが、できれば顔を合わせたくなかった。木の実がひとつでも採れればさっさと戻ろうと思った。
 暗い森を突っ切り、森の端に近い日当たりのいい場所、そこに比較的実りのいい果樹がある。少し欲張って赤い実を多めに摘んで麻袋に入れ、そのひとつを齧りながらまた森を渡っていると──
 三本先の大木のふもとににライがいた。おそらく先日仕掛けた鳥くびりの罠の様子を見ているのだろう。暗い森の昏い色彩のなかで、彼の白銀の毛並みは遠くにいても目を奪われる。真夏に雪を見るような異端の美しさだった。
 しかし、いまは見蕩れている場合ではない。コノエはライに気づかれないように、そっと足を忍ばせてその場を去ろうとしたが。
「おい」
 背後から足止めの声。……気づかれていた。
「何をこそこそとしている」
「別に……今日はもう戻ろうかと思っていただけだ」
「鳥が二羽かかっている。持っていけ」
 そう言われては立ち去ることができない。しぶしぶライの許へ行くと、すでに冷たくなった鳥を放るように手渡された。
 小さな、黄緑色の鳥。これも貴重な血肉であることに違いはない。けれどコノエの掌の上の小鳥はあまりに愛らしく……哀れに感じた。
 コノエが眉根を寄せて小鳥を見つめていると
「甘いな」
 ライの嘲笑にも似た声が降った。
 顔を上向けると、ライはいつの間にかコノエの間近に来ていた。コノエが背にしている木の幹に片手をつけ、覆いかぶさるようにコノエを見下ろしている。
「……何がだよ」
「この鳥が痛ましいか?」
「そんなことは……ない」
 フンと鼻で笑う声がした。「嘘をつくな」と言わんばかりの。
「お前のその甘さはいつか命とりになるな。現にいまもあの魔物に囚われて貪られている」
「!」
 頭に血がのぼり、咄嗟にライの顔に爪を向けた。しかしその手をライに掴まれ、強く握られる。
「以前に言ったな。あれが魔物になったのは、お前と共にいたからだと。お前の「呪い」があれのなかの「魔」を増幅させてしまったと」
「………」
 ライは淡々と言葉を継ぎ、表情も平静に見えたが、コノエの手首を掴む力がだんだんと強くなっていく。
「お前は……お前の罪を贖うためにあれと一緒にいるんじゃないのか?」
 まただ──また、ライの言葉は刃となって、コノエの胸に突き刺さった。
「違う!」
「何が違う」
「俺は……アサトを…」
 言いかけて言葉に詰まった。アサトと共に生きたい。傍にいたい。くちづけを交わした。体を重ねた。優しい笑み。拙い言葉。想い。思い出。そのどれもが口に出せば空々しいものになってしまうような気がした。
 そしてコノエは、いま思い返したものがひどく遠いものに感じて愕然となった。思い返す──「思い返さなければならないもの」になっていたことに。
 我知らず唇が震えていた。コノエの様子を見て、ライの手がゆっくり離れる。互いに沈黙しあう数瞬のあと、先に口を開いたのはライだった。
「お前は、この森を出ろ」
 思いがけない言葉だった。コノエは弾かれるようにライを見る。
「森を出て……俺と一緒に来い」
「一緒にって……俺はまだ歌を取り戻していない」
「かまわん」
「まだ……約束の七日月になってないだろ!」
「そんなものはどうでもいい」
 その約束を言い出したのはライじゃないか──コノエはそう言おうとして、できなかった。ライに体を引き寄せられ、きつく抱きしめられたからだ。
 驚きに抗うこともできなかった。
「……魔物と猫は、一緒にいられるものではない。互いをすり減らしあうばかりだろう。お前の馬鹿はいまに始まったことではないが……いいかげん無理に気づけ」
「………っ…」
 ライの一言一言がコノエの心を挫いていく。逃れたいのに、コノエの体はライの胸に抱きこまれている。久しぶりに触れる猫の体、その温もり。心とは裏腹に、コノエの喉が──くるると鳴った。
 笑むような吐息が耳を掠めた次の瞬間、コノエはライの手に頤を持ちあげられ、くちづけられていた。
 驚きに身を捩って逃れようとするコノエの体を、ライはより深くくちづけることで縛めた。熱い舌が侵入してコノエのそれに絡む。
「っ……ん、ぅ……」
 ライの舌で咥内の上顎を撫でられ、背筋が震えた。舌はそっと咥内を離れ、コノエの唇の縁をなぞる。啄ばむように二、三度軽くくちづけられ、もう一度舌を捻じ込まれた。
 猛々しいライとは思えない甘いくちづけだった。嫌だ、と思いながらも瞼がだんだんと落ちていく。体の力が抜け、コノエもやがておずおずと舌を絡ませていた。
 ライの唇がコノエのそれから離れ、今度は耳朶に寄せられる。軽く食まれ、内側をそっと舐められて甘い痺れが尾の根に走った。
「……猫の肌が恋しかったか?」
 耳に熱い息を吹き込むようにして、ライが囁く。いきなり心に冷水を浴びせられ、コノエは目を見開いた。
「……違う!」
「恥じることはない。当たり前のことだ。お前は猫と、猫の世界を恋しがっている。素直に認めろ」
「……違う……違う!」
「じゃあ、これは何だ?」
 ライの手がやにわにコノエの下肢に伸びる。下衣の上から触れられて自分がそこを硬くしていたことに気づいた。
「やめ……ろよっ」
 さらに布の上から形を確かめるように揉みしだかれて、あからさまな快感が走る。鼻声に似た甘い呻きが漏れてしまった。
 いつの間にか、きつく目を閉じライの肩に縋っていた。ライの手がゆっくりと下穿きの中に忍び込み、自分の欲に直に触れるのを息をつめて待ってしまっていた。指が先端に触れ、ぴくりと震える。そのまま雁首の部分をはさむように擦られてライの肩を掴む手に力がこもった。
「ん、あっ……」
 コノエが思う以上にそこは過敏に反応した。乾いた土に水が染み込むように、体は快楽を受け入れようとしている。それは自分が餓えていることに他ならず、ライの言ったことを認めてしまうことになる。
 コノエの欲をゆるゆる弄っていたライの指が、幹を滑り尻の窪みへと潜りこもうとしたとき──それに思い至り、コノエは身を固くした。
 餓えている──自分は。
「嫌だっ!」
 やにわにコノエはかぶりを振って、火がついたように抵抗した。ライの胸板を叩いて押し退けた。苛立ちまぎれの溜息をつき、もう一度コノエを引き寄せようと肩を掴むライの腕に噛みついて、一瞬怯んだ隙にその腕のなかから逃げ出した。
 森のなかをコノエは一心に駆けた。
 まだ生々しく残るライの唇と指の感触を振り払うように駆けた。けれどライの言葉はコノエの鼓動に合わせて何度も頭のなかで鳴り響き、住処の洞穴に戻るまで、ずっとコノエを苦しめ続けた。

 戻ってくるなり、いきなりしがみついて震えるコノエに、アサトは困惑の唸りをあげた。どうしたものかと逡巡するように、両手を上下させ、やがて節くれだった長い指がゆっくりとコノエの体を包む。
 鋭い爪の生えた指は、考えなしに触れればコノエを傷つけてしまう。だからいつもアサトは腫れ物に触るようにコノエに触れる。
 それはアサトにとっても辛いことだろう。コノエはぼんやりと考える。
 繋がることのできない体、交わすことのできない言葉。
 一緒にいることが互いをすり減らしていく……本当に、そうなのだろうか。
 わからない……考えたくない。コノエはアサトの胸に顔を埋め、額をこすりつけた。アサトはまだ戸惑っているようだ。
「アサト……逃げよう」
 ぽつりと抑揚のない声で呟く。コノエの背でアサトの指がぴくりと動くのを感じた。
 そうだ。七日月を待つこともない。すぐに逃げよう。約束を反古にしようとしたのはライのほうであったし……もう彼の言葉に惑わされるのはごめんだ。
 アサトが上体を屈めてコノエの耳の毛をつくろおうと舌を伸ばす。とたん、その喉から地鳴りのような唸り声が響き始めた。
「アサト……?」
 視線を向けると、寄せた眉間の肉を岩のように盛りあげ、牙を剥きあげるアサトの険しい顔があった。
 そして、コノエは気づく。いまの自分の体にはライの匂いが強くまとわりついていることに。
 自分の迂闊さに舌打ちする間もなく、アサトは短く吼えて立ちあがると、洞穴の外へと飛び出て行った。
「アサト!」
 コノエも慌ててそのあとを追った。洞穴を出て数十歩のところにアサトはまだ立
っており、ほっと肩をおろす。とにかく訳を話そうと歩み寄り──立ち竦んだ。
 アサトの前にライが立ちはだかり、彼に剣を向けていた。
「ライ!」
 対峙する猫と獣は、コノエの声など耳にはいってないかのように睨み合っている。猫は好戦的な笑みに唇をしならせ、獣は滴る憎しみを唸りにのせて──
 先に口を開いたのは、ライだった。
「魔物にもいっぱしに悋気があるか。大層なことだ」
 ライのあからさまな挑発に、アサトが吼える。一触即発の空気を割るようにコノエは二匹の間に飛び込んだ。
「やめろよ!ふたりとも!」
 アサトの唸りが小さくなり、ほんのわずか怒りが萎むのを感じたが、ライはそのままのぎらついた目をコノエのほうに向けてきた。
「ひとつ聞く。何故お前はこの魔物を俺にしむけなかった」
「え……?」
「この魔物は闇の魔術師を倒すほどの力があったのだろう?なら、最初から俺と闘わせればいい」
 それは……
「上手くいけば俺を殺すか、そうでなくとも手負いにさせて逃げ出すこともできたはずだ。わざわざ七日月を待たなくてもいい。……俺を情にほださせようとすることも」
 ほんの一瞬、ライの唇が歪められた。しかし剣の柄を握りなおし、切っ先をアサトにいま一度向けたときには、白猫は闘牙の顔になっていた。
「……それも、もうどうでもいい」
 コノエの答えを聞く前に、ライはそう言った。もとより答えなど必要としていなかったのかもしれない。ライの視線は目の前に立つコノエを素通りし、アサトに注がれる。
「俺は、いま、こいつと無性に闘いたい。賞金首ではなく、闇の魔術師を倒した強豪として」
 コノエは息を呑んだ。背後でアサトの唸りがまた高くなるのを聞いた。やはり、どうあってもこうなることは避けられなかったのだろうか。
 アサトの力を借りることは、考えていなくもなかった。アサトと自分、二匹がかりでライに向かえば、傷を負わせて逃げる時間くらいは作れたかもしれない。 
 しかし、コノエはそれをしたくなかった。
 それをしたら、アサトが「害なす存在」であることの証明になってしまう。
 そう考えるうちにも、ライとアサトの闘気は黒々と煮詰まっていく。二匹とも見つめあったまま微動だにしない。少しでもどちらかが動けば闘いは始まってしまう。コノエも緊張に身動きがとれなくなる。
しかし───
「~~~~~~!!────!!」
 森中に響き渡るような咆哮をアサトがあげた。それが合図となった。
 丸太のようなアサトの腕が振りかぶられ、ライへと向かう。ライは横に飛びすさり、彼が一瞬前にいたその場所はアサトの爪によって大きく掘り抉られていた。
 ライが軽々と木に登り、追うようにその幹をアサトが一撃でへし折った。葉を盛大に散らしてなぎ倒される枝木から、ライが高く跳躍しアサトに切りかかった。
「アサト!」
 コノエの叫びに、アサトも身を翻し刃をよけた。返す拳をライに振りおろすが、やはり速力は圧倒的にライのほうが高い。またもやすやすとよけられてしまう。
 ライは攻撃と回避を繰り返しながら、だんだんと森の奥にはいっていく。アサトもそれを追って森に踏みこむ。
 これがライの作戦であることは、コノエにはすぐにわかった。
 アサトの鉄槌のような殴打を一撃でもまともに食らえば、ライの命はおそらくない。力で劣る代わりに速力の高いライは、それを生かせる森へとアサトを誘導したのだろう。そしてアサトとて元は戦闘に長けた吉良の猫だ。ライの思惑に気づいていないわけがない。気づいて、なお止められない。それほどの怒りにかられているのだ。
 ああ……まただ。コノエは唇を噛む。
 自分の存在が、またアサトを傷つけようとしている。
──魔物と猫は一緒にいられるものではない──
 ライの言葉がまた蘇り、コノエは両手で頭を抱えるように耳を塞いだ。
 なら、どうすればよかった?
 アサトから離れればよかった?
 あのとき、ライの言うことを聞いて一緒に森を出ればよかったのだろうか。
 自問と自責が頭のなかを渦巻いて、コノエは地面に膝をついた。
 じりじりとした時が過ぎる。
 そうしている間にも二匹の闘いは続いていることだろう。
 自分に何ができる?
 何もできやしない。
「でも……」
 小さく掠れた声でコノエはひとりごちる。ゆっくりと立ちあがって、腰に下げられた剣を抜いた。
 どんなに小さな力でも、決してそれは無ではないのだ。たとえ一回でもアサトの盾になれれば、ライにかすり傷ひとつでも負わせることができれば、勝機は、ことの流れは変えられるかもしれない。
 そんなわずかな願いをこめて、コノエは二匹を追って森へはいって行った。

 抉られた地面、折れた枝、踏み潰された茂みがまるで獣道のように二匹の行き先を示していた。
 駆け足でそれを辿っていくうちに、木々を揺らす音と獣が咆えたける声が近づいてくる。同時に水音も聞こえてきた。いま二匹がいるのはあの場所──鹿を招く橋を渡したあの崖であることに気がついた。
 やがて視界が開け、崖の縁近い岩場で攻防する二匹の姿が見えた。
 そこはすでにアサトの爪で形を変えられていた。苔むしていた岩は抉られ、倒れた大木が薪のように折り重なっている。ライは狭い足場をものともせずに、倒れた大木の枝をバネにして、迅速にアサトの激打をかわしていく。
 何故二匹がこの場所に行き着いたのか。
 攻めるのにも守るのにも不都合な岩場、まして足を滑らせれば谷底の急流に落ちてしまう。ライが誘ったのかアサトが追い詰めたのか、計りかねてコノエはアサトを凝視して──息を呑んだ。
 黒い毛に覆われていて目立たずにいたが、アサトの体はすでに傷だらけだった。腕、背中、特に肩口からの傷がひどくぱっくりと赤い裂け目が見てとれた。
 しかし、ライもまったくの無傷ではなかった。アサトの爪が掠ったのか右腕に引っかき傷というにはあまりに長く大きい傷があり、そこからしたしたと血を流していた。
 アサトが口を開け、荒い息をつく。動きがあからさまに鈍っている。魔物と猫──本来ならばアサトのほうが優勢なはずだ。
 おそらくは、吉良の猫だった頃の体の記憶と、魔物の肉体との齟齬だろう。日常生活には問題なくとも、闘いにおいては長年闘い慣れていた体のやり方に引きずられ、魔物の器を上手く使いこなせないのだろう。
 コノエがそう思う間にも、閃光のようにライはアサトに切りかかる。迎え撃つアサトが腕を振りかぶったとき、アサトの足元の岩がぼろりと崩れた。
 体勢を立て直そうとアサトが一瞬、動きを止めた隙に、ライの刃はアサトの肩から胸をざっくりと斬りつけた。
「────!」
「アサト───!」
 アサトの叫びとコノエの叫びが重なった。
 傷から血を噴出させながら、アサトの上体はゆらゆらと傾いだ。もう数回、ライの刃を受けたら、それで終わりだろう。いまも崖の縁におぼつかない足で立っている。いまにも谷底に落ちていきそうなほどに。
 アサトが──死ぬ。
 それを考えてコノエの体が冷えていく。
 アサトが自分の前から、いなくなる。アサトの存在がこの世界から消える。
 滑稽なほど体が震えた。歯の根が鳴って涙が溢れた。
 嫌だ──嫌だ。
 嫌だ。
 嫌だ!嫌だ!
 頭のなかが気狂いのように、その言葉だけで埋めつくされた。
 そうだ、自分がアサトと共にいること。贖罪ではない。もっと勝手な想いだ。
 ただ自分がアサトの傍にいたかった。アサトを離したくなかった。アサトを傷つけても、苦しめても、アサトを繋ぎとめていたかったのだ。
 だからアサトが死ぬのは許さない。自分も決して死なない。どんな浅ましいものになっても汚泥のなかを這いずっても、生きる。生きたい。
 生きたいんだ!
 ア サ ト と 一 緒 に ───
 とたん、胸のなかが湧き湯のように熱くなった。
 視界が白く光だし、体の周りを小さな光の粒子が舞う。
 粒子はやがて光の帯となり、流星のように軌跡を描きながら幾重にも放たれた。何本もの光の帯は、まっすぐに傷ついた魔物へ向かい、その体を青白くとりまいた。
「……歌、だ……」
 コノエは自分とアサトを繋ぐ光を呆けたように見ていた。どんなに思い返そうとしても歌えなかった歌、それがいま、コノエの体からとめどなく迸っている。胸から沸く旋律にコノエはまた涙を流した。これは美しい歌ではなかった。澄んだもの、濁ったもの、昏いもの、眩しいもの、まっすぐなもの、狡猾なもの、白と黒、生と死。
 相反するものを幾重にも抱え込み、いびつな旋律を生みだしていた。強く弱い調べ、優しくて……悲しい歌。
 
 涙に濡れた目を開けると、ライが剣を下げこちらを見ていた。痛みか憔悴か、眉根を寄せて低く呟いた。
「お前は……魔物に歌を歌うのか」
 答えは決まっている。
「そうだ。俺の歌はアサトのためのものだ。俺は……アンタの賛牙にはなれない」
 コノエがまっすぐに言い放つと、 ライは少し苦しげに息をつき、次いで笑った。
「そうか。残念だな」
 そう言うとライはコノエに背を向けた。ふわりと白銀の髪が揺れる。
 ライの視線の先には、アサトがいる。コノエの歌を受け、震えていた膝も力を取り戻しているようだった。
 そしてさらに──
 アサトの肩の筋肉が大きく隆起し、腕に太い血管が浮かびあがる。荒く上下する胸は衰弱のためではない、漲る力に揺さぶられてのことだ。
 しかし、アサトは動かなかった。両手をそろえて地面につき、祖先のような格好で居住まいを正す。コノエの歌で力を得ているはずなのに、アサトの戦意は完全になくなっていた──
 しかしそれは降伏ではなく、力ある者の余裕──寛大さのようなものを感じさせた。
「貴様……ふざけるな!」
 ライが剣を構えて唸った。そして何を思ったのか、正面からアサトに向かって突進した。このままアサトが抵抗をしなければ、アサトの体は袈裟切りにされる。しかしアサトが手をあげればライの体は、果実のように潰されるだろう。アサトを試すにしては、あまりにも肉斬骨断の策だった。
 ライが剣を振りあげ振りおろす。
 次の瞬間、その剣は中空をむなしく斬った。
「……!上か!」
 コノエとライ、二匹が同時に顔をあげると、アサトの巨躯は天と見紛うほどの高みにいた。ありえない跳躍、それも賛牙の歌の力に他ならなかった。
 黒い体は宙に浮いているかのような錯覚を与えたが、ゆっくりと、だが実際は激しい速力をつけて地へと戻った。
 着地したアサトの体は、それ自体がひとつの鉄槌だった。轟音をあげ、地面を抉り、砂煙と石のつぶてを八方に撒き散らした。
 コノエは両手を交差させて、飛んでくる石から顔をかばった。視界は土煙に覆われて状況が把握できない。だから自分の足元がぐらりと揺らいだときも何が起こったのか瞬時に理解できなかった。
「あ───」
 数瞬ののち、ようやく自分の足元の岩が崩れたことに気づいた。しかしそのわずかな遅れのせいで数歩先の固い足場に飛び移ることができなかった。
 コノエの体が崖下に投げ出される──時が狂ったように、自分の体がゆっくりと逆さになっていくのをコノエは感じた。
 切り裂くような獣の声が谷に轟いた。
 コノエには聞こえた。
 その雄叫びは自分を呼んでいる。

 「コノエ」と声を限りに叫んでいる──

.

 目覚めると乳白色の霧があたりを包んでいた。
 その霧は、柔らかくて暖かい。そして自分が横たわっている、地であるはずの場所も、ふわふわとした霧だけでできていた。
 上体を起こしてあたりを見回す。何もない。花ひとつ石ころひとつ見当たらない。天上か地獄かすらもわからない。しかし何故か寂しい光景とは思わなかった。
 ふと霧の向こうに薄灰のシルエットが見えた。誰かが、猫が……いる。目をしばたかせ。コノエはゆっくりその陰影に向かって歩き出した。霧の上を歩くのは、どうにも頼りない心地で尾がむずがゆくなった。
 数歩歩いたとき、突然あたりの霧がさあっと晴れ、目の前の存在と対峙していた。
 それは……アサトだった。
 魔物ではない、黒い髪、青い瞳、褐色の肌──出会ったときの、猫の姿をしたアサトだった。アサトもこちらを見て、驚きに尻尾を固くしていた。
「アサト……?」
 驚きに思考が停止したのか、コノエはアサトの名を呼んだきり、言葉がでなかった。
「コノ……エ?」
 アサトの声、少したどたどしい口調、優しい声音。
「アサト……本当に、アサトなんだな?」
 コノエは震える指で、そっとアサトの頬に触れた。感触は温かく確かなもので、これが霧でできた幻ではないことが知れた。
 確かめるようにアサトの鼻梁を、唇を何度も指でなぞった。
「アサト……アサト」
 虚けのように同じ言葉しか繰り返せなかった。鼻の奥が熱くなって堪えようと思う間もなく、涙がどっと溢れた。
 アサトが、そっと顔を寄せコノエの涙を舐めた。おずおずと温かい舌がコノエの涙の跡をなぞる。
 このうえない喜びのなか──それでもコノエにはわかっていた。
 ここが現の世でないことに。
「アサト……俺たち、死んだのか?」
 意識を失う前のことを考えれば、死んでいてもおかしくはない。しかしアサトはコノエの鼻先に自分のそれを擦り合わせると
「死んでない……たぶん」
 訥々と言った。
 そうか……コノエは目をとじ、アサトの胸にもたれかかった。
 ならばこの逢瀬はひとときのものだ。おそらくはアサトの魂の部分に自分は触れているのだ。
 それでもいい。コノエの喉が鳴り、アサトのも鳴る。二匹は存分に互いの匂いを摺りつけ合い……くちづけを交わした。不思議と性欲を感じないのは肉の器がないせいか。しかし触れ合いたい気持ちはなにより強い。このまま溶け合ってひとつになってしまいたいほどに。
「コノエ……すまない」
 ふと耳元にアサトの呟きが落ちる。コノエが顔を上向けると困ったように眉を寄せるアサトの顔とぶつかった。
「何が?」
「その……俺のせいで、お前は崖から落ちてしまった」
 そのことか。それなら自分が間抜けだっただけだ。
 しかし、ふとあることを思い出す。
「そういえば、アサト。なんであのときお前はライと闘おうとしなかったんだ?俺の歌を聴いていたのに」
 その問いにアサトの目が柔らかく細められた。
「お前の歌を、聴いたから」
「え?」
「不安、だったんだ。俺が魔物の姿で、コノエがいろいろ大変で、いつ、コノエが、俺のことを嫌になっても……しかたのない、ことだって」
「アサト……」
 思い返すのが辛いとばかりに、アサトは大きな息をついた。
「そんなときに、あいつがやってきて……コノエ楽しそうに見えた。あいつと行ってしまうんじゃないかと思うと、覚悟していても怖かった。……とても、怖かった」
 絞り出すように呟いて、アサトはコノエの両肩を強く抱いた。
「そうしたら、コノエがあいつの匂いをつけてきて、あいつを殺したいと思った。でも、コノエの歌を聴いたら」
 アサトは白い牙を小さく見せて、笑った。
「コノエの気持ちが俺のなかに、いっぱいはいってきた。優しくて、暖かくて、俺のこと……失いたくないって……俺はすごく嬉しかった。だから、あいつを殺す意味がなくなった」
「………」
「コノエ、言ってただろう?殺す必要のない者を殺したら駄目だって。コノエの気持ちがわかったから、あいつはもう、殺す必要はない」
 おそらく、いま自分は泣き笑いのような顔をしているだろうとコノエは思った。アサトの魂──魔物の体のなかにあっても、それは宝石のように澄み輝いていることだろう。
 そして彼は片時も離れず、傍にいてくれたのだ。
「…アサト……」 
「コノエ?」
 言葉にするのは照れくさかったが、アサトの真摯さに応えたかった。
「約束するよ。アサト。俺はこの先お前が生きている限り、手足がもげても血反吐を吐いても絶対に生き続ける。生きて、お前の傍にいる。お前が嫌だって言っても……俺はお前を離さないから」
 魔物と猫は一緒にいられるものではない──その言葉をもう一度反芻する。確かにそうなのかもしれない。この先、心も体も磨耗して壊れてしまうときが来るかもしれない。それでも、そこから逃げることはしたくない。
「俺もだ。コノエ。俺もお前が生きるなら、ずっと生きる。死んでも生き続ける」
「……おかしいぞ…それ」
 二匹は顔を見合わせて笑いあい、鼻先をお互いの首筋に埋めた。体がゆらゆらと温もりに包まれていて、気がつけばミルクのような霧が一寸先も見えないほど濃く自分たちの周りを取り巻いていた。
 もう──そろそろだ。
 アサトの背に回した手に力をこめると、アサトもそれに応えてコノエを強く抱いた。もっと、もっと強く抱いてほしい。
「アサト……アサト……アサト…」
「コノエ、コノ……エ」
 呪文のように互いの名を呼んだ。それに呼応したのか、コノエの体がまた淡く光り、アサトのための歌が紡ぎだされた。
 猫と魔物──正と邪の歌。
 アサトが喉を鳴らし、心底幸せそうな笑みを浮かべるのを見るのを最後に、コノエの意識は白い霧に覆われていった。

,

 それは、なかなか悪くない目覚めだとコノエは思った。
アサトの太く頑丈な腕は、あの霧のように柔らかくはないが充分に温かい。
 まして、目覚めたコノエの頬を心配そうに舐めてくれるのだから、体がぐっしょりと濡れていることも、体のあちこちに打ちつけような痛みが走るのも、たいしたことではなかった。
 二、三度まばたきして、ようやく意識がはっきりして、コノエは体を起こす。
 そこは見知った森のなかだった。
 あれから何がどうなって、いまに至ったのか──振り返り、アサトに目で問うてみる。もちろん魔物のアサトの口では細かい説明などかなわないのだが。
「あの急流はさすがに泳ぐには向いてないようだな」
 突然の言葉にコノエが驚くと、何のことはない。アサトの背後にライがいただけだった。
「馬鹿猫が。まったくお前はつまらん水を差す」
 腕組みをして憮然と呟くいまのライには、ぎらついた闘志は感じられず、ただただ不遜なだけだった。
「俺は……いったい」
「崖から落ちるお前を、このけだものが抱え込んでそのまま急流に飛び込んだだけだ。まあこの図体じゃ流されるどころか水を堰き止めかねない勢いだったが」
 そうか……と呟いて、いま一度アサトを見る。アサトの体にはいまだ生々しい傷が無数に残っていた。賛牙の歌は力は与えるが治癒能力があるわけではない。しかしよく見ると深手であった肩と胸の傷には、何枚もの葉が切り口を保護するように貼りついていた。これは、血止めの薬草だ。
「これ……」
 コノエがそっとそこに指を這わせる。アサトの無骨な指にはできそうもにない仕事だ。
 コノエがライのほうを見返ると、彼は背を向け木々の挟間に向かって歩き出していた。
「アンタ……!どこ行くんだ」
「いったん街へ戻る」
「え……」
「このけだものを斬ったせいで剣がだいぶ傷んだ。街で研ぎ直してもらわねばならん。それに長逗留が過ぎた。準備もしなおす必要がある」
「ライ……」
「そうだな。十日月は街にいるだろう。その間にお前たちがどうしようと俺の知ったことではない」
「それって……」
「勘違いするな。次に会ったときには、今度こそそのけだものを討ち取るからな。覚悟しておけ」
 ライは最後まで振り返らずにそう言うと、森の奥に消えていった。礼の言葉を投げかけようかとも思ったが、怒りを買いそうな気がしてやめた。どちらにしろライは嘘をつく猫じゃない。今度会ったときには本当にアサトを討とうとするだろう。
「十日月か。アサト、あまりのんびりもしてられないな」
 コノエはアサトを見あげて、そう笑いかけた。
 状況は決して安穏としたものではないが、コノエは何故だか浮き立つような気持ちだった。
 ここより猫気のない森を探すのは難しそうだが、全く無くはないだろう。定住自体この先できないかもしれないが、かえってそのほうがいいのかもしれない。
「次は……北の森に行ってみようか……でも」
 コノエはアサトに目で訴え、アサトもそれに頷き返す。
 とりあえずは、住処に戻って抱き合って寝よう。まだ、少しだけ猶予はある。
 抱きかかえていたコノエを肩に乗せ、アサトもライとは別の方角、自分たちの寝床の待つ森へと入っていった。

.

 十日月ののち──銀髪の賞金稼ぎが再び森にはいったとき、予想違わず魔物の気配はすでにかけらもなく、洞穴ももぬけのからになっていた。
 あの図体の獣を連れてでは、猫の目を避けきるのは難しい。奴らの居場所、新しい情報がギルドにはいってくるのも、そう遠い日ではないかもしれない。
 しかしあの獣を他の賞金稼ぎには、取られたくはない。まあ賛牙を連れた魔物など、この世に二匹といない存在だ。そうそう奴が倒されることはないだろう。
 魔物との再戦を思い、賞金稼ぎの闘牙の血がざわりと騒ぐ。
 そして賛牙の歌を思い返す。
 不思議な歌だった。旋律は混濁していて決して美しいものではなかった。
 最初に彼が偶然に奏でた歌のほうが、拙いがよほどましな代物だった。
けれど──また聴いてみたいと思う。それが自分のために歌われるものでないとしても。
 賞金稼ぎは、長居は無用とばかりに踵を返し歩き出した。
 奴らを追うために準備しなくてはならないことは山ほどある。
 ここの森から、街を通らず行ける場所は限られている。少し調べればおのずと奴らの行き場所も絞れるだろう。
 ふと、木々の狭間から覗く空を見上げた。
 この空の下のどこかで、馬鹿猫は歌っているのだろうか。

 魔物と寄り添い奏でる──美しくない歌を。
 

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コメント

…温かくて切なくて、優しいお話でした。確かに”BLAZE UP”ですね。でもやっぱり辛いので、儚くない幸せ一色なアサトとコノエのお話も、是非お願いします(笑)
こちらを知ってほんの数日なのですが、ほとんどのお話を、もう何度も読み返しています。情景が匂い立つように浮かんでくるので、脳内ではアニメーションで再生されています。登場キャラが皆、本編の姿のまま違和感なく動いてくれてるのが本当に嬉しくて!読みながら、鼻の奥がツンとしたりクスッと吹き出したりと忙しいですが、これからも、色んな皆に会わせてください。素敵なお話をありがとうございます!

投稿: ほのほの | 2009年8月 5日 (水) 23時25分

感想ありがとうございます。
私も頭の中でこのシーンがスチルになったら…みたいなことを想像しながら書いてました。情景を浮かべてくださって幸いです。
アサコノは考えてる話があるのですが、こっちも切ない系で…幸せなのも好きなんですが、なんかアサコノは切なくなってしまいますねー。幸せアサコノは淵井さんのSSで完全補完されてしまったからかもしれません。
漫画だとバカエロアサコノばっかり描いてるんですけど…
書きたいものはいっぱいあって、体が追いつかないですけどまた隙をみて何か書けたらと思います。

投稿: 後藤羽矢子 | 2009年8月 7日 (金) 22時36分

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