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2009年5月 4日 (月)

美しい歌 後編

コノエにとって、その夜は心地よく眠れるはずだった。
 腹はほどよく満たされていたし、夏の甘い夜風が洞穴にわずかに吹き込んでさらさらと気持ちいい。寄り添うアサトの心音は規則正しく、赤ん坊のようなまどろみを誘う。
 頬に濡れた感触が走った。アサトがコノエの頬を舐めたらしい。「…ん……」と短く応えてコノエはまた眠りのなかに沈んでいく。
 しかしアサトはそうさせてくれなかった。
 同じところを舐められる。二度、三度と。長い舌はやがて首筋に降り、鎖骨をなぞり、さらには服の襟から胸にまで侵入しようとしていた。
「ん……う、ん」
 もはや感覚はやり過ごせないものになっていて、コノエは重い瞼をあげた。
 目の前にアサトの顔があった。
 暗い洞穴のなか、その顔はわずかな陰影を浮かべるだけで表情はわからない。もとより表情のわかるような造作でもない。しかし、目が。
 アサトの目だけが闇のなかで爛々と光っていた。元のアサトと同じ紺碧の瞳、しかし今コノエを見つめるそれは、獣のような純粋な暴虐の光を湛えていた。
「あ………」 
 コノエの体がある予感に竦む。以前にも何度かこんな夜があった。……アサトの体を欲望が駆け巡り、その解放の術をコノエの体に求めている。
 本当にアサトがすべての欲求をコノエにぶつけたら、コノエは生きていないだろう。だから二匹の営みはアサトの強い自制によってようやく成り立つものだとコノエもわかっている。
 それでも、猫同士の交接とはかけ離れたそれは、コノエをひどく苛むものだ。その記憶がコノエを怯えさせる。
 しかし──
「アサト……欲しいのか?」
 そっと手を伸ばし、コノエはアサトの頬に触れる。獣の目から嗜虐の光が消え、か細い唸りが喉の奥から響いてくる。それはアサトのためらいを表す響きだ。
 自分のなかの怯えを精一杯押さえこんで、コノエは笑った。そして自分から服を脱ぎ落として、アサトの胸に擦りよった。
 魔獣の体に猫の心。それがどういう心地なのかは、わからない。けれど、感情の奔流に引き裂かれそうになる感覚はコノエにも覚えがある。
 アサトもそんな思いをしているのだ──魔獣の本能に必死に抗っている。
 だからコノエは「いいよ」と言ってやる。大丈夫だから。受け止めてやるから。
 仰臥するアサトの上に乗ってその黒い体毛に裸の胸を擦り合わせていると、ぐうう、と喉を潰すような唸りが漏れて、股間の体毛をかきわけるように赤黒い肉茎が漲り出てきた。
 普段は祖先のように体内に納まっているらしいそれは、コノエの体のものとまるで違う。ぬらぬらとした粘液にまみれて、大きさは大型種の雄の腕ほどもある。もちろんそんなものが、コノエの体にはいるわけがない。
 コノエは両手でアサトの巨茎をつかむと、粘液の滑りを借りて上下に扱きたてた。それだけでは足りないだろうと、口も使う。咥えこむことすらできないので、先端を舌で舐めた。
「んっ……む…うっ…ん、んん」
 とくとくと先端から溢れる生ぬるい粘液をコノエは一生懸命舌で掃った。絶対にコノエと繋がることのできないそれ。哀れでいとおしい雄茎をコノエは足の間にはさみ、自分のそれと擦り合わせた。
 口で吸い、手を動かし、腰をくねらせ、コノエは全身を使ってアサトの雄を愛撫した。しかしそれは滑る舌に体中を舐められるような心地でもあった。いつの間にか全身は粘液にまみれ、コノエの息も荒くなっていく。
「あ……、は…っう……ああ…」
「~~……~……」
 コノエの喘ぎと獣の荒い息が重なり合う。
 このまま……アサトが達してくれればいい……そう思いながらコノエはアサトの熱を懸命に追い立てた。
「────!」
 穴倉に獣の短い咆哮が響いた。次の瞬間、ズルリと濡れた音がしてアサトの内股から紅色の「何か」が伸び出てきた。
 何本もの、はらわたにも似たそれは、意思あるもののように蠢き、コノエの体に絡みついてくる。初めてそれを見たときのような恐怖はないが、それでも蛭が吸いつくような感触に生理的な怖気が走った。
「アサト……っ……い、やだっ……」
 コノエはかぶりを振って抵抗したが、ぬめる触手は、地中から掘り出された蚯蚓が逃げ場を求めるように這いまわった。やがてそのうちの何本かが、コノエの口へ、そして尻の窪みへと辿り着く。
「あ……っ、や、…うあっ」
 肉色のそれが我先へとばかりに、押し合いながらコノエのなかにはいりこもうとする。歯を食いしばり口からの侵入を拒んだが、下肢に巻きついた触手のほうは、すでに粘液にまみれたそこにじりじりと食い込んできた。
「……っく……」
 コノエは固く目を閉じ、尻に力をこめた。しかし、柔らかく弾力のあるそれは、形を自在に変えながら、粘つく音をたてて侵入する。
 先端の吸盤のような突起が、コノエの腸壁の粘膜を擦りあげた。
「うう……っ」
 おぞましい感覚に、目から涙がにじむ。こみあげる吐き気を唇の端から息を逃すことで堪えた。しかし次の瞬間、柔らかかったはずのそれが、ぼこりと瘤のように固く膨れてコノエの内を大きく圧迫した。
「あ!あぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!」
 目の前で火花が散るような衝撃に思わず叫んでいた。その隙をついて口のなかにまでそれがはいりこんできた。コノエの口をいっぱいにこじ開け、喉の奥まで犯そうとする肉の塊。息苦しさに頭に靄がかかる。
 しかし、この苦しさが長く続くものでないと、コノエは知っている。もうすぐ、このはらわたのような器官から与えられるものに、コノエの苦しみは快楽へと成り代わる。
 最初からすべてを委ねてしまえば楽だったろう。
 けれど、だからこそ抗いたかった。
 アサトの肉も欲も、全部素のままの自分で受け入れて、感じたかった。
 それが苦しみでも怖気でも、すべて、ありのままに。
 舌に苦みがひろがった。銜え込んだ器官がどくどくとコノエの咥内に体液を排出している。臀孔を犯しているそれも同じことをしているのか、腹の奥が熱くなった。
 ……おそらく本来は、捕食されるものを麻痺させるためのものなのだろう。その体液が体に染みこんだとたん、コノエの体は熱く痺れ、視界が白く霞みだす。
 食虫植物に溶かされる哀れな虫を、コノエは連想した。
 このまま溶かされて吸い尽くされ、アサトの血肉になれたら、どんなにかいいだろうか。二匹を隔てる体がなくなり、本当にひとつになれたら……
 ……駄目、だ。 
 それじゃ、意味が、ない。 
 何が?
 ……わから、ない。
 アサト。
 ア、サト……。
 コノエの思考はもはや形を成さなくなり、意味を持たない言葉が頭を巡るばかりだった。
 気づけば、肉の傀儡はコノエの体とアサトの肉茎を一緒に括るように巻きついていた。感覚は麻痺して、どこに何が触れているのかわからなくなっていたと思っていたのに、腹から胸板に触れるアサトの雄の部分はいやに熱く、これだけが性器なのだとコノエに意識させる。
 性器でない部分──巻きついた肉がコノエの体を上下に揺する。内股から腹、胸、胸から、腹、内股、粘液にまみれた巨茎がコノエの体を滑っていく。
 体全体でアサトの性器を扱いているようなものだった。朦朧とする頭のなか、アサトの荒い息が遠くに聞こえた。
「あっ……あ、ふぁ、……っ」
 皮膚を這う、蛭のような感触ももう不快ではなかった。生臭い粘液も、じんじんと疼く後孔を蠢きながら出いりするものも。
 だらしなく開いたコノエの口から舌が垂れ、よだれが滴った。いまの自分は、もう猫ではない。この体に巻きつくものと同じ……肉の塊。アサトの欲を満たすための、性器のようなもの。
「うあっ……あ、あっ」
 体が瘧のように震えた。どうやら射精してしまったらしい。しかし、全身で快楽を享受しているいまの状態では、それは些細なものでしかなく、体の熱はそんなものでは到底引かなかった。
 腹に触れているアサトの雄茎が、ひときわ大きく膨れあがる。幹の部分がきゅう、と硬くなった。一拍の間をおいてアサトの咆哮が狭い洞穴に響き渡った。
「─────!」
 次の瞬間、アサトの性器が震え、その先端から白濁が迸った。ひとつ体を震わすごとに吐き出すそれは、尋常でない量だった。そして吐精は、このまま終わらないのではと思うほど長く、魔獣の白い血は、コノエの顔、体に容赦なく降り注いだ。
 しかし、それもいまのコノエには快感だった。熱いそれが体にまぶされるたびにコノエの体も震え、性器に滴ると同時にコノエもまた達してしまった。
「ア、サト……っ、ん、アサト……」
 うわごとのようにアサトの名を呼んだ。返されるアサトの唸り。
しかし、まだ終わりではない。
 あれだけの量を吐き出しても、アサトの雄は萎える気配をみせなかった。
 コノエの精液にまみれた体は、また粘つく音をたてながらアサトの雄に奉仕する。コノエの頭に白い靄がかかる。天も地も快も不快もわからなくなり、ただ温い泥のなかで溺れているような心地だった。
(あ……あ……あ……)
 体の内と外を濡らす、ぐちゃぐちゃとした音がゆっくりと遠ざかり、やがてコノエの意識の糸はぷつりと切れた。

.

 目覚めると、目の前に黒い毛に覆われた胸板があった。
 周りを見回し、すべてが終わったことを知った。アサトの性器も触手もいまは体内になりを潜め、温かい体だけがコノエの体を包んでいた。
 アサトを目覚めさせないように、コノエはゆっくり半身を起こした。
 粘液と精液にまみれた体はアサトが毛づくろいしてくれたのか、ひととおり綺麗になっていた。しかしそれでも拭いきれないべたつきが体のあちこちに残っていたし、触手に犯された後孔はまだ滑っていた。
 体を洗いに行こう……そう思い、そっと立ちあがると体中が軋んだ。
「……っ」
 呻きをこらえ、衣服を身につけ、静かに洞穴を出た。
 外の空気は薄青に染まって、夜明けが近いことを知らせていた。
 草の匂いのする新鮮な空気を吸って、湧き池のほうへと足を向け、立ち竦んだ──
 ライが、岩壁に背をもたらせて立っていたからだ。
 てっきりまだ天幕のなかで寝ていると思っていた。
「お、起きてたのか……」
 語尾が消え入りそうなほど小さい呟きを落とすと、ライはコノエを横目で睨み、憮然とした声で
「近くであんなに騒がれて寝ていられるか」と返してきた。
 コノエの顔がカッと熱くなった。やっぱり──気づかれていた。
 もちろん、ライの存在をまったく考えてないわけではなかった。しかし、ライを気にしてアサトの求めを撥ねることだけはしたくなかった。普段どおりでいようと決めたのもコノエであったし、アサトとの行為を「恥」とは思いたくない。
 とはいえ、わずかに記憶に残る数刻前の自分──体中をわたに弄られ喘ぐ姿を思い返し、さらに顔に血がのぼる。
「……ごめん……」
 それだけ呟いて、ライの前を通りすぎようとしたが
「お前は」
 ライの声に足を止める。
「え……?」
「お前は、アレが悦くてあの魔物から離れられないのか?」
「──!──」
 淡々としたライの呟きには、うっすらと侮蔑の色がにじんでいた。息が詰まって、腹の底が冷えた。まるで氷の刃を差し込まれたような気色だった。
 何か言い返そうと思っても、コノエの唇は震えるばかりで言葉をつむぐことができない。キンと鼻の奥が痛くなって初めて自分が泣きそうになっていることに気づいた。
「………」
 いま一度、顔をあげてライを見る。冷たい水色の眼。わずかに眉根がよっているのは、自分に対する嫌悪からだろうか。
 だめだ……!
 俯いて踵を返し、コノエは湧き池に向かって走り出した。がむしゃらに茂みをかき分け、枝で腕にすり傷を作っても、止まることなく走り続けた。
 湧き池に着き、むしるように服を脱ぎ捨て、コノエは水の中に飛び込んだ。
 体のあちこちに残る凝った粘液を、手でこすり落とす。
 両手で水をすくい、顔に叩きつける。何度も何度も。しかし何度やっても水の冷たさは目から流れる熱いものに流されていく。
「……っう、うっ」
 食いしばった牙の隙間から嗚咽が漏れた。泣きたくない、そう思ってももう止めることはできなかった。
 先刻のライの言葉を思い返す。
 ライは──アサトを「魔物」と言った。
 昨日までは「奴隷」と言っていた。それも随分な呼び方だが、アサトがいまの姿になる前、猫同士でいがみあっていた頃に、ライはアサトをそう呼んでいたのだ。
 ライがアサトをアサトとして見ていてくれたのだと、コノエは今更気がついた。
 しかし──いまは。 
 アサトと睦みあう自分の姿、ライの目には、どんなおぞましいものに見えていたのだろうか。
「あ、うあぁっ……っ」
 何が悲しいのかも、もうわからなくなっていた。ただライの言葉は、コノエの心を支えていた柱の一本を大きく挫いてしまったのだ。何かぽっかりとしたものが胸に空いて、そこから覗く闇が怖ろしくてコノエは涙を止められなかった。

.

 水浴びを終えて戻ると、ライはもう森にはいって行ったようだった。コノエはまだ体が休息を求めていたので、また洞穴のなかでアサトと眠ることにした。
 寄り添うアサトがときおり気遣うように頬を舐めてくれて、その心地よさはコノエの悲しみを和らげてくれた。喉を鳴らし子猫のように体を丸め、コノエはアサトの懐に納まってとろとろと浅い眠りをくりかえした。
 目を覚まし、洞穴を出ると陽の月は空の真上に来ていた。時間は昼を少し過ぎたところか。
 昨日充分食べたことだし、狩りはいいかとも思ったが、疲れた体が木の実の類を求めていた。クィムとまではいかなくとも、何か酸味のある果実が食べたかった。
「すぐに戻るから」とアサトに言い残し、コノエは森にはいった。ライが森のどの辺りを回っているのかは知れないが、できれば顔を合わせたくなかった。木の実がひとつでも採れればさっさと戻ろうと思った。
 暗い森を突っ切り、森の端に近い日当たりのいい場所、そこに比較的実りのいい果樹がある。少し欲張って赤い実を多めに摘んで麻袋に入れ、そのひとつを齧りながらまた森を渡っていると──
 三本先の大木のふもとににライがいた。おそらく先日仕掛けた鳥くびりの罠の様子を見ているのだろう。暗い森の昏い色彩のなかで、彼の白銀の毛並みは遠くにいても目を奪われる。真夏に雪を見るような異端の美しさだった。
 しかし、いまは見蕩れている場合ではない。コノエはライに気づかれないように、そっと足を忍ばせてその場を去ろうとしたが。
「おい」
 背後から足止めの声。……気づかれていた。
「何をこそこそとしている」
「別に……今日はもう戻ろうかと思っていただけだ」
「鳥が二羽かかっている。持っていけ」
 そう言われては立ち去ることができない。しぶしぶライの許へ行くと、すでに冷たくなった鳥を放るように手渡された。
 小さな、黄緑色の鳥。これも貴重な血肉であることに違いはない。けれどコノエの掌の上の小鳥はあまりに愛らしく……哀れに感じた。
 コノエが眉根を寄せて小鳥を見つめていると
「甘いな」
 ライの嘲笑にも似た声が降った。
 顔を上向けると、ライはいつの間にかコノエの間近に来ていた。コノエが背にしている木の幹に片手をつけ、覆いかぶさるようにコノエを見下ろしている。
「……何がだよ」
「この鳥が痛ましいか?」
「そんなことは……ない」
 フンと鼻で笑う声がした。「嘘をつくな」と言わんばかりの。
「お前のその甘さはいつか命とりになるな。現にいまもあの魔物に囚われて貪られている」
「!」
 頭に血がのぼり、咄嗟にライの顔に爪を向けた。しかしその手をライに掴まれ、強く握られる。
「以前に言ったな。あれが魔物になったのは、お前と共にいたからだと。お前の「呪い」があれのなかの「魔」を増幅させてしまったと」
「………」
 ライは淡々と言葉を継ぎ、表情も平静に見えたが、コノエの手首を掴む力がだんだんと強くなっていく。
「お前は……お前の罪を贖うためにあれと一緒にいるんじゃないのか?」
 まただ──また、ライの言葉は刃となって、コノエの胸に突き刺さった。
「違う!」
「何が違う」
「俺は……アサトを…」
 言いかけて言葉に詰まった。アサトと共に生きたい。傍にいたい。くちづけを交わした。体を重ねた。優しい笑み。拙い言葉。想い。思い出。そのどれもが口に出せば空々しいものになってしまうような気がした。
 そしてコノエは、いま思い返したものがひどく遠いものに感じて愕然となった。思い返す──「思い返さなければならないもの」になっていたことに。
 我知らず唇が震えていた。コノエの様子を見て、ライの手がゆっくり離れる。互いに沈黙しあう数瞬のあと、先に口を開いたのはライだった。
「お前は、この森を出ろ」
 思いがけない言葉だった。コノエは弾かれるようにライを見る。
「森を出て……俺と一緒に来い」
「一緒にって……俺はまだ歌を取り戻していない」
「かまわん」
「まだ……約束の七日月になってないだろ!」
「そんなものはどうでもいい」
 その約束を言い出したのはライじゃないか──コノエはそう言おうとして、できなかった。ライに体を引き寄せられ、きつく抱きしめられたからだ。
 驚きに抗うこともできなかった。
「……魔物と猫は、一緒にいられるものではない。互いをすり減らしあうばかりだろう。お前の馬鹿はいまに始まったことではないが……いいかげん無理に気づけ」
「………っ…」
 ライの一言一言がコノエの心を挫いていく。逃れたいのに、コノエの体はライの胸に抱きこまれている。久しぶりに触れる猫の体、その温もり。心とは裏腹に、コノエの喉が──くるると鳴った。
 笑むような吐息が耳を掠めた次の瞬間、コノエはライの手に頤を持ちあげられ、くちづけられていた。
 驚きに身を捩って逃れようとするコノエの体を、ライはより深くくちづけることで縛めた。熱い舌が侵入してコノエのそれに絡む。
「っ……ん、ぅ……」
 ライの舌で咥内の上顎を撫でられ、背筋が震えた。舌はそっと咥内を離れ、コノエの唇の縁をなぞる。啄ばむように二、三度軽くくちづけられ、もう一度舌を捻じ込まれた。
 猛々しいライとは思えない甘いくちづけだった。嫌だ、と思いながらも瞼がだんだんと落ちていく。体の力が抜け、コノエもやがておずおずと舌を絡ませていた。
 ライの唇がコノエのそれから離れ、今度は耳朶に寄せられる。軽く食まれ、内側をそっと舐められて甘い痺れが尾の根に走った。
「……猫の肌が恋しかったか?」
 耳に熱い息を吹き込むようにして、ライが囁く。いきなり心に冷水を浴びせられ、コノエは目を見開いた。
「……違う!」
「恥じることはない。当たり前のことだ。お前は猫と、猫の世界を恋しがっている。素直に認めろ」
「……違う……違う!」
「じゃあ、これは何だ?」
 ライの手がやにわにコノエの下肢に伸びる。下衣の上から触れられて自分がそこを硬くしていたことに気づいた。
「やめ……ろよっ」
 さらに布の上から形を確かめるように揉みしだかれて、あからさまな快感が走る。鼻声に似た甘い呻きが漏れてしまった。
 いつの間にか、きつく目を閉じライの肩に縋っていた。ライの手がゆっくりと下穿きの中に忍び込み、自分の欲に直に触れるのを息をつめて待ってしまっていた。指が先端に触れ、ぴくりと震える。そのまま雁首の部分をはさむように擦られてライの肩を掴む手に力がこもった。
「ん、あっ……」
 コノエが思う以上にそこは過敏に反応した。乾いた土に水が染み込むように、体は快楽を受け入れようとしている。それは自分が餓えていることに他ならず、ライの言ったことを認めてしまうことになる。
 コノエの欲をゆるゆる弄っていたライの指が、幹を滑り尻の窪みへと潜りこもうとしたとき──それに思い至り、コノエは身を固くした。
 餓えている──自分は。
「嫌だっ!」
 やにわにコノエはかぶりを振って、火がついたように抵抗した。ライの胸板を叩いて押し退けた。苛立ちまぎれの溜息をつき、もう一度コノエを引き寄せようと肩を掴むライの腕に噛みついて、一瞬怯んだ隙にその腕のなかから逃げ出した。
 森のなかをコノエは一心に駆けた。
 まだ生々しく残るライの唇と指の感触を振り払うように駆けた。けれどライの言葉はコノエの鼓動に合わせて何度も頭のなかで鳴り響き、住処の洞穴に戻るまで、ずっとコノエを苦しめ続けた。

 戻ってくるなり、いきなりしがみついて震えるコノエに、アサトは困惑の唸りをあげた。どうしたものかと逡巡するように、両手を上下させ、やがて節くれだった長い指がゆっくりとコノエの体を包む。
 鋭い爪の生えた指は、考えなしに触れればコノエを傷つけてしまう。だからいつもアサトは腫れ物に触るようにコノエに触れる。
 それはアサトにとっても辛いことだろう。コノエはぼんやりと考える。
 繋がることのできない体、交わすことのできない言葉。
 一緒にいることが互いをすり減らしていく……本当に、そうなのだろうか。
 わからない……考えたくない。コノエはアサトの胸に顔を埋め、額をこすりつけた。アサトはまだ戸惑っているようだ。
「アサト……逃げよう」
 ぽつりと抑揚のない声で呟く。コノエの背でアサトの指がぴくりと動くのを感じた。
 そうだ。七日月を待つこともない。すぐに逃げよう。約束を反古にしようとしたのはライのほうであったし……もう彼の言葉に惑わされるのはごめんだ。
 アサトが上体を屈めてコノエの耳の毛をつくろおうと舌を伸ばす。とたん、その喉から地鳴りのような唸り声が響き始めた。
「アサト……?」
 視線を向けると、寄せた眉間の肉を岩のように盛りあげ、牙を剥きあげるアサトの険しい顔があった。
 そして、コノエは気づく。いまの自分の体にはライの匂いが強くまとわりついていることに。
 自分の迂闊さに舌打ちする間もなく、アサトは短く吼えて立ちあがると、洞穴の外へと飛び出て行った。
「アサト!」
 コノエも慌ててそのあとを追った。洞穴を出て数十歩のところにアサトはまだ立
っており、ほっと肩をおろす。とにかく訳を話そうと歩み寄り──立ち竦んだ。
 アサトの前にライが立ちはだかり、彼に剣を向けていた。
「ライ!」
 対峙する猫と獣は、コノエの声など耳にはいってないかのように睨み合っている。猫は好戦的な笑みに唇をしならせ、獣は滴る憎しみを唸りにのせて──
 先に口を開いたのは、ライだった。
「魔物にもいっぱしに悋気があるか。大層なことだ」
 ライのあからさまな挑発に、アサトが吼える。一触即発の空気を割るようにコノエは二匹の間に飛び込んだ。
「やめろよ!ふたりとも!」
 アサトの唸りが小さくなり、ほんのわずか怒りが萎むのを感じたが、ライはそのままのぎらついた目をコノエのほうに向けてきた。
「ひとつ聞く。何故お前はこの魔物を俺にしむけなかった」
「え……?」
「この魔物は闇の魔術師を倒すほどの力があったのだろう?なら、最初から俺と闘わせればいい」
 それは……
「上手くいけば俺を殺すか、そうでなくとも手負いにさせて逃げ出すこともできたはずだ。わざわざ七日月を待たなくてもいい。……俺を情にほださせようとすることも」
 ほんの一瞬、ライの唇が歪められた。しかし剣の柄を握りなおし、切っ先をアサトにいま一度向けたときには、白猫は闘牙の顔になっていた。
「……それも、もうどうでもいい」
 コノエの答えを聞く前に、ライはそう言った。もとより答えなど必要としていなかったのかもしれない。ライの視線は目の前に立つコノエを素通りし、アサトに注がれる。
「俺は、いま、こいつと無性に闘いたい。賞金首ではなく、闇の魔術師を倒した強豪として」
 コノエは息を呑んだ。背後でアサトの唸りがまた高くなるのを聞いた。やはり、どうあってもこうなることは避けられなかったのだろうか。
 アサトの力を借りることは、考えていなくもなかった。アサトと自分、二匹がかりでライに向かえば、傷を負わせて逃げる時間くらいは作れたかもしれない。 
 しかし、コノエはそれをしたくなかった。
 それをしたら、アサトが「害なす存在」であることの証明になってしまう。
 そう考えるうちにも、ライとアサトの闘気は黒々と煮詰まっていく。二匹とも見つめあったまま微動だにしない。少しでもどちらかが動けば闘いは始まってしまう。コノエも緊張に身動きがとれなくなる。
しかし───
「~~~~~~!!────!!」
 森中に響き渡るような咆哮をアサトがあげた。それが合図となった。
 丸太のようなアサトの腕が振りかぶられ、ライへと向かう。ライは横に飛びすさり、彼が一瞬前にいたその場所はアサトの爪によって大きく掘り抉られていた。
 ライが軽々と木に登り、追うようにその幹をアサトが一撃でへし折った。葉を盛大に散らしてなぎ倒される枝木から、ライが高く跳躍しアサトに切りかかった。
「アサト!」
 コノエの叫びに、アサトも身を翻し刃をよけた。返す拳をライに振りおろすが、やはり速力は圧倒的にライのほうが高い。またもやすやすとよけられてしまう。
 ライは攻撃と回避を繰り返しながら、だんだんと森の奥にはいっていく。アサトもそれを追って森に踏みこむ。
 これがライの作戦であることは、コノエにはすぐにわかった。
 アサトの鉄槌のような殴打を一撃でもまともに食らえば、ライの命はおそらくない。力で劣る代わりに速力の高いライは、それを生かせる森へとアサトを誘導したのだろう。そしてアサトとて元は戦闘に長けた吉良の猫だ。ライの思惑に気づいていないわけがない。気づいて、なお止められない。それほどの怒りにかられているのだ。
 ああ……まただ。コノエは唇を噛む。
 自分の存在が、またアサトを傷つけようとしている。
──魔物と猫は一緒にいられるものではない──
 ライの言葉がまた蘇り、コノエは両手で頭を抱えるように耳を塞いだ。
 なら、どうすればよかった?
 アサトから離れればよかった?
 あのとき、ライの言うことを聞いて一緒に森を出ればよかったのだろうか。
 自問と自責が頭のなかを渦巻いて、コノエは地面に膝をついた。
 じりじりとした時が過ぎる。
 そうしている間にも二匹の闘いは続いていることだろう。
 自分に何ができる?
 何もできやしない。
「でも……」
 小さく掠れた声でコノエはひとりごちる。ゆっくりと立ちあがって、腰に下げられた剣を抜いた。
 どんなに小さな力でも、決してそれは無ではないのだ。たとえ一回でもアサトの盾になれれば、ライにかすり傷ひとつでも負わせることができれば、勝機は、ことの流れは変えられるかもしれない。
 そんなわずかな願いをこめて、コノエは二匹を追って森へはいって行った。

 抉られた地面、折れた枝、踏み潰された茂みがまるで獣道のように二匹の行き先を示していた。
 駆け足でそれを辿っていくうちに、木々を揺らす音と獣が咆えたける声が近づいてくる。同時に水音も聞こえてきた。いま二匹がいるのはあの場所──鹿を招く橋を渡したあの崖であることに気がついた。
 やがて視界が開け、崖の縁近い岩場で攻防する二匹の姿が見えた。
 そこはすでにアサトの爪で形を変えられていた。苔むしていた岩は抉られ、倒れた大木が薪のように折り重なっている。ライは狭い足場をものともせずに、倒れた大木の枝をバネにして、迅速にアサトの激打をかわしていく。
 何故二匹がこの場所に行き着いたのか。
 攻めるのにも守るのにも不都合な岩場、まして足を滑らせれば谷底の急流に落ちてしまう。ライが誘ったのかアサトが追い詰めたのか、計りかねてコノエはアサトを凝視して──息を呑んだ。
 黒い毛に覆われていて目立たずにいたが、アサトの体はすでに傷だらけだった。腕、背中、特に肩口からの傷がひどくぱっくりと赤い裂け目が見てとれた。
 しかし、ライもまったくの無傷ではなかった。アサトの爪が掠ったのか右腕に引っかき傷というにはあまりに長く大きい傷があり、そこからしたしたと血を流していた。
 アサトが口を開け、荒い息をつく。動きがあからさまに鈍っている。魔物と猫──本来ならばアサトのほうが優勢なはずだ。
 おそらくは、吉良の猫だった頃の体の記憶と、魔物の肉体との齟齬だろう。日常生活には問題なくとも、闘いにおいては長年闘い慣れていた体のやり方に引きずられ、魔物の器を上手く使いこなせないのだろう。
 コノエがそう思う間にも、閃光のようにライはアサトに切りかかる。迎え撃つアサトが腕を振りかぶったとき、アサトの足元の岩がぼろりと崩れた。
 体勢を立て直そうとアサトが一瞬、動きを止めた隙に、ライの刃はアサトの肩から胸をざっくりと斬りつけた。
「────!」
「アサト───!」
 アサトの叫びとコノエの叫びが重なった。
 傷から血を噴出させながら、アサトの上体はゆらゆらと傾いだ。もう数回、ライの刃を受けたら、それで終わりだろう。いまも崖の縁におぼつかない足で立っている。いまにも谷底に落ちていきそうなほどに。
 アサトが──死ぬ。
 それを考えてコノエの体が冷えていく。
 アサトが自分の前から、いなくなる。アサトの存在がこの世界から消える。
 滑稽なほど体が震えた。歯の根が鳴って涙が溢れた。
 嫌だ──嫌だ。
 嫌だ。
 嫌だ!嫌だ!
 頭のなかが気狂いのように、その言葉だけで埋めつくされた。
 そうだ、自分がアサトと共にいること。贖罪ではない。もっと勝手な想いだ。
 ただ自分がアサトの傍にいたかった。アサトを離したくなかった。アサトを傷つけても、苦しめても、アサトを繋ぎとめていたかったのだ。
 だからアサトが死ぬのは許さない。自分も決して死なない。どんな浅ましいものになっても汚泥のなかを這いずっても、生きる。生きたい。
 生きたいんだ!
 ア サ ト と 一 緒 に ───
 とたん、胸のなかが湧き湯のように熱くなった。
 視界が白く光だし、体の周りを小さな光の粒子が舞う。
 粒子はやがて光の帯となり、流星のように軌跡を描きながら幾重にも放たれた。何本もの光の帯は、まっすぐに傷ついた魔物へ向かい、その体を青白くとりまいた。
「……歌、だ……」
 コノエは自分とアサトを繋ぐ光を呆けたように見ていた。どんなに思い返そうとしても歌えなかった歌、それがいま、コノエの体からとめどなく迸っている。胸から沸く旋律にコノエはまた涙を流した。これは美しい歌ではなかった。澄んだもの、濁ったもの、昏いもの、眩しいもの、まっすぐなもの、狡猾なもの、白と黒、生と死。
 相反するものを幾重にも抱え込み、いびつな旋律を生みだしていた。強く弱い調べ、優しくて……悲しい歌。
 
 涙に濡れた目を開けると、ライが剣を下げこちらを見ていた。痛みか憔悴か、眉根を寄せて低く呟いた。
「お前は……魔物に歌を歌うのか」
 答えは決まっている。
「そうだ。俺の歌はアサトのためのものだ。俺は……アンタの賛牙にはなれない」
 コノエがまっすぐに言い放つと、 ライは少し苦しげに息をつき、次いで笑った。
「そうか。残念だな」
 そう言うとライはコノエに背を向けた。ふわりと白銀の髪が揺れる。
 ライの視線の先には、アサトがいる。コノエの歌を受け、震えていた膝も力を取り戻しているようだった。
 そしてさらに──
 アサトの肩の筋肉が大きく隆起し、腕に太い血管が浮かびあがる。荒く上下する胸は衰弱のためではない、漲る力に揺さぶられてのことだ。
 しかし、アサトは動かなかった。両手をそろえて地面につき、祖先のような格好で居住まいを正す。コノエの歌で力を得ているはずなのに、アサトの戦意は完全になくなっていた──
 しかしそれは降伏ではなく、力ある者の余裕──寛大さのようなものを感じさせた。
「貴様……ふざけるな!」
 ライが剣を構えて唸った。そして何を思ったのか、正面からアサトに向かって突進した。このままアサトが抵抗をしなければ、アサトの体は袈裟切りにされる。しかしアサトが手をあげればライの体は、果実のように潰されるだろう。アサトを試すにしては、あまりにも肉斬骨断の策だった。
 ライが剣を振りあげ振りおろす。
 次の瞬間、その剣は中空をむなしく斬った。
「……!上か!」
 コノエとライ、二匹が同時に顔をあげると、アサトの巨躯は天と見紛うほどの高みにいた。ありえない跳躍、それも賛牙の歌の力に他ならなかった。
 黒い体は宙に浮いているかのような錯覚を与えたが、ゆっくりと、だが実際は激しい速力をつけて地へと戻った。
 着地したアサトの体は、それ自体がひとつの鉄槌だった。轟音をあげ、地面を抉り、砂煙と石のつぶてを八方に撒き散らした。
 コノエは両手を交差させて、飛んでくる石から顔をかばった。視界は土煙に覆われて状況が把握できない。だから自分の足元がぐらりと揺らいだときも何が起こったのか瞬時に理解できなかった。
「あ───」
 数瞬ののち、ようやく自分の足元の岩が崩れたことに気づいた。しかしそのわずかな遅れのせいで数歩先の固い足場に飛び移ることができなかった。
 コノエの体が崖下に投げ出される──時が狂ったように、自分の体がゆっくりと逆さになっていくのをコノエは感じた。
 切り裂くような獣の声が谷に轟いた。
 コノエには聞こえた。
 その雄叫びは自分を呼んでいる。

 「コノエ」と声を限りに叫んでいる──

.

 目覚めると乳白色の霧があたりを包んでいた。
 その霧は、柔らかくて暖かい。そして自分が横たわっている、地であるはずの場所も、ふわふわとした霧だけでできていた。
 上体を起こしてあたりを見回す。何もない。花ひとつ石ころひとつ見当たらない。天上か地獄かすらもわからない。しかし何故か寂しい光景とは思わなかった。
 ふと霧の向こうに薄灰のシルエットが見えた。誰かが、猫が……いる。目をしばたかせ。コノエはゆっくりその陰影に向かって歩き出した。霧の上を歩くのは、どうにも頼りない心地で尾がむずがゆくなった。
 数歩歩いたとき、突然あたりの霧がさあっと晴れ、目の前の存在と対峙していた。
 それは……アサトだった。
 魔物ではない、黒い髪、青い瞳、褐色の肌──出会ったときの、猫の姿をしたアサトだった。アサトもこちらを見て、驚きに尻尾を固くしていた。
「アサト……?」
 驚きに思考が停止したのか、コノエはアサトの名を呼んだきり、言葉がでなかった。
「コノ……エ?」
 アサトの声、少したどたどしい口調、優しい声音。
「アサト……本当に、アサトなんだな?」
 コノエは震える指で、そっとアサトの頬に触れた。感触は温かく確かなもので、これが霧でできた幻ではないことが知れた。
 確かめるようにアサトの鼻梁を、唇を何度も指でなぞった。
「アサト……アサト」
 虚けのように同じ言葉しか繰り返せなかった。鼻の奥が熱くなって堪えようと思う間もなく、涙がどっと溢れた。
 アサトが、そっと顔を寄せコノエの涙を舐めた。おずおずと温かい舌がコノエの涙の跡をなぞる。
 このうえない喜びのなか──それでもコノエにはわかっていた。
 ここが現の世でないことに。
「アサト……俺たち、死んだのか?」
 意識を失う前のことを考えれば、死んでいてもおかしくはない。しかしアサトはコノエの鼻先に自分のそれを擦り合わせると
「死んでない……たぶん」
 訥々と言った。
 そうか……コノエは目をとじ、アサトの胸にもたれかかった。
 ならばこの逢瀬はひとときのものだ。おそらくはアサトの魂の部分に自分は触れているのだ。
 それでもいい。コノエの喉が鳴り、アサトのも鳴る。二匹は存分に互いの匂いを摺りつけ合い……くちづけを交わした。不思議と性欲を感じないのは肉の器がないせいか。しかし触れ合いたい気持ちはなにより強い。このまま溶け合ってひとつになってしまいたいほどに。
「コノエ……すまない」
 ふと耳元にアサトの呟きが落ちる。コノエが顔を上向けると困ったように眉を寄せるアサトの顔とぶつかった。
「何が?」
「その……俺のせいで、お前は崖から落ちてしまった」
 そのことか。それなら自分が間抜けだっただけだ。
 しかし、ふとあることを思い出す。
「そういえば、アサト。なんであのときお前はライと闘おうとしなかったんだ?俺の歌を聴いていたのに」
 その問いにアサトの目が柔らかく細められた。
「お前の歌を、聴いたから」
「え?」
「不安、だったんだ。俺が魔物の姿で、コノエがいろいろ大変で、いつ、コノエが、俺のことを嫌になっても……しかたのない、ことだって」
「アサト……」
 思い返すのが辛いとばかりに、アサトは大きな息をついた。
「そんなときに、あいつがやってきて……コノエ楽しそうに見えた。あいつと行ってしまうんじゃないかと思うと、覚悟していても怖かった。……とても、怖かった」
 絞り出すように呟いて、アサトはコノエの両肩を強く抱いた。
「そうしたら、コノエがあいつの匂いをつけてきて、あいつを殺したいと思った。でも、コノエの歌を聴いたら」
 アサトは白い牙を小さく見せて、笑った。
「コノエの気持ちが俺のなかに、いっぱいはいってきた。優しくて、暖かくて、俺のこと……失いたくないって……俺はすごく嬉しかった。だから、あいつを殺す意味がなくなった」
「………」
「コノエ、言ってただろう?殺す必要のない者を殺したら駄目だって。コノエの気持ちがわかったから、あいつはもう、殺す必要はない」
 おそらく、いま自分は泣き笑いのような顔をしているだろうとコノエは思った。アサトの魂──魔物の体のなかにあっても、それは宝石のように澄み輝いていることだろう。
 そして彼は片時も離れず、傍にいてくれたのだ。
「…アサト……」 
「コノエ?」
 言葉にするのは照れくさかったが、アサトの真摯さに応えたかった。
「約束するよ。アサト。俺はこの先お前が生きている限り、手足がもげても血反吐を吐いても絶対に生き続ける。生きて、お前の傍にいる。お前が嫌だって言っても……俺はお前を離さないから」
 魔物と猫は一緒にいられるものではない──その言葉をもう一度反芻する。確かにそうなのかもしれない。この先、心も体も磨耗して壊れてしまうときが来るかもしれない。それでも、そこから逃げることはしたくない。
「俺もだ。コノエ。俺もお前が生きるなら、ずっと生きる。死んでも生き続ける」
「……おかしいぞ…それ」
 二匹は顔を見合わせて笑いあい、鼻先をお互いの首筋に埋めた。体がゆらゆらと温もりに包まれていて、気がつけばミルクのような霧が一寸先も見えないほど濃く自分たちの周りを取り巻いていた。
 もう──そろそろだ。
 アサトの背に回した手に力をこめると、アサトもそれに応えてコノエを強く抱いた。もっと、もっと強く抱いてほしい。
「アサト……アサト……アサト…」
「コノエ、コノ……エ」
 呪文のように互いの名を呼んだ。それに呼応したのか、コノエの体がまた淡く光り、アサトのための歌が紡ぎだされた。
 猫と魔物──正と邪の歌。
 アサトが喉を鳴らし、心底幸せそうな笑みを浮かべるのを見るのを最後に、コノエの意識は白い霧に覆われていった。

,

 それは、なかなか悪くない目覚めだとコノエは思った。
アサトの太く頑丈な腕は、あの霧のように柔らかくはないが充分に温かい。
 まして、目覚めたコノエの頬を心配そうに舐めてくれるのだから、体がぐっしょりと濡れていることも、体のあちこちに打ちつけような痛みが走るのも、たいしたことではなかった。
 二、三度まばたきして、ようやく意識がはっきりして、コノエは体を起こす。
 そこは見知った森のなかだった。
 あれから何がどうなって、いまに至ったのか──振り返り、アサトに目で問うてみる。もちろん魔物のアサトの口では細かい説明などかなわないのだが。
「あの急流はさすがに泳ぐには向いてないようだな」
 突然の言葉にコノエが驚くと、何のことはない。アサトの背後にライがいただけだった。
「馬鹿猫が。まったくお前はつまらん水を差す」
 腕組みをして憮然と呟くいまのライには、ぎらついた闘志は感じられず、ただただ不遜なだけだった。
「俺は……いったい」
「崖から落ちるお前を、このけだものが抱え込んでそのまま急流に飛び込んだだけだ。まあこの図体じゃ流されるどころか水を堰き止めかねない勢いだったが」
 そうか……と呟いて、いま一度アサトを見る。アサトの体にはいまだ生々しい傷が無数に残っていた。賛牙の歌は力は与えるが治癒能力があるわけではない。しかしよく見ると深手であった肩と胸の傷には、何枚もの葉が切り口を保護するように貼りついていた。これは、血止めの薬草だ。
「これ……」
 コノエがそっとそこに指を這わせる。アサトの無骨な指にはできそうもにない仕事だ。
 コノエがライのほうを見返ると、彼は背を向け木々の挟間に向かって歩き出していた。
「アンタ……!どこ行くんだ」
「いったん街へ戻る」
「え……」
「このけだものを斬ったせいで剣がだいぶ傷んだ。街で研ぎ直してもらわねばならん。それに長逗留が過ぎた。準備もしなおす必要がある」
「ライ……」
「そうだな。十日月は街にいるだろう。その間にお前たちがどうしようと俺の知ったことではない」
「それって……」
「勘違いするな。次に会ったときには、今度こそそのけだものを討ち取るからな。覚悟しておけ」
 ライは最後まで振り返らずにそう言うと、森の奥に消えていった。礼の言葉を投げかけようかとも思ったが、怒りを買いそうな気がしてやめた。どちらにしろライは嘘をつく猫じゃない。今度会ったときには本当にアサトを討とうとするだろう。
「十日月か。アサト、あまりのんびりもしてられないな」
 コノエはアサトを見あげて、そう笑いかけた。
 状況は決して安穏としたものではないが、コノエは何故だか浮き立つような気持ちだった。
 ここより猫気のない森を探すのは難しそうだが、全く無くはないだろう。定住自体この先できないかもしれないが、かえってそのほうがいいのかもしれない。
「次は……北の森に行ってみようか……でも」
 コノエはアサトに目で訴え、アサトもそれに頷き返す。
 とりあえずは、住処に戻って抱き合って寝よう。まだ、少しだけ猶予はある。
 抱きかかえていたコノエを肩に乗せ、アサトもライとは別の方角、自分たちの寝床の待つ森へと入っていった。

.

 十日月ののち──銀髪の賞金稼ぎが再び森にはいったとき、予想違わず魔物の気配はすでにかけらもなく、洞穴ももぬけのからになっていた。
 あの図体の獣を連れてでは、猫の目を避けきるのは難しい。奴らの居場所、新しい情報がギルドにはいってくるのも、そう遠い日ではないかもしれない。
 しかしあの獣を他の賞金稼ぎには、取られたくはない。まあ賛牙を連れた魔物など、この世に二匹といない存在だ。そうそう奴が倒されることはないだろう。
 魔物との再戦を思い、賞金稼ぎの闘牙の血がざわりと騒ぐ。
 そして賛牙の歌を思い返す。
 不思議な歌だった。旋律は混濁していて決して美しいものではなかった。
 最初に彼が偶然に奏でた歌のほうが、拙いがよほどましな代物だった。
けれど──また聴いてみたいと思う。それが自分のために歌われるものでないとしても。
 賞金稼ぎは、長居は無用とばかりに踵を返し歩き出した。
 奴らを追うために準備しなくてはならないことは山ほどある。
 ここの森から、街を通らず行ける場所は限られている。少し調べればおのずと奴らの行き場所も絞れるだろう。
 ふと、木々の狭間から覗く空を見上げた。
 この空の下のどこかで、馬鹿猫は歌っているのだろうか。

 魔物と寄り添い奏でる──美しくない歌を。
 

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美しい歌 前編

  地面を踏みしめると、草の匂いとかすかに水の匂いが立ちのぼる。

 陽の月の光があまり差さないせいだろう。この森はいつも水濡れた木の香がたちこめている。見あげると、長く伸びた緑の枝葉がまるで天井のように空を覆いつくしている。ところどころ、虫食いのように開いた穴から差し込む光だけでは、この地面を乾かすことはできないだろう。

 日当たりが悪いせいか、この森はあまり木の実の類は豊富ではない。リビカが好む果樹は低木が多く、この森では育ちが悪い。しかし代わりに菌糸類は山ほど採れた。日干しにしておけば、味わいも増すし保存も利く。その日も何本か、丸い傘のそれを採って麻袋の中に放った。
 もう少し南に行けば、森も開け、木の実の豊富な場所へとでるだろう。しかし、いまの自分にはすべてを隠してくれるような、この森の暗さがありがたかった。
 山菜を摘み、小さな鼠を捕らえ、ゆるゆると森を移動する。時々、木の幹に爪をたてそうになっては慌てて引っ込める。マーキングは本能による習性だが、いまは自分の匂いは残してはいけない。こんな深い森にも、いつ誰がやってくるかは知れないのだ。
 陽の月が傾きかける頃、麻袋はようやく充分に膨らんだ。自分一匹には多すぎる食糧。しかし待つ者の腹を満たすには程遠い量だった。
 陽の月を追いかけるように、森を西に行く。だんだんと上り坂になってくる地面に足を滑らせないように慎重に歩く。やがて森は林となり、さらに進むと突き当たりと言わんばかりに垂直に削げた山肌が立ちはだかる。
 おそらく昔に大きな崖崩れがあったのだろう。むき出しになった硬い地質のそこには、草木もあまり生えてはいない。その壁に沿うようにさらに歩くと、ぽっかりとした洞穴の前に来た。これは自然にできたものではない。

 洞穴の前に立ち、中の暗闇へと声をかける。
「アサト……」
 自分を待っていてくれる者の名前。愛しい者の名前。
 洞穴の奥から声がする。獣の唸りにしてはあまりに大きく、雷鳴が轟くような不気味さに満ちていた。
 闇から声の主が這うように姿を現した。うっかりこの場所に迷い込んできた猫がそれを見たら、腰を抜かすか気を失うかしてしまうだろう。その姿は一言で言えば──魔物だった。
 身の丈は普通の猫の倍近く。全身は黒い毛に覆い尽くされ、両顎からは湾曲した二本の角。顎の先にも捩れたそれ。筋肉が隆起した腕は、身の丈に比べ不自然に長く、節くれだった指の先には、凶器としか言いようのない鋭い爪が生えていた。
 「────」
 黒い魔物が目の前に立ち、またひときわ大きく唸りをあげる。知らぬ者が見れば、哀れな猫が魔物に食らわれる寸前と思うだろう。
 しかし自分にはわかる。その唸りの持つ意味が。
「コノエ──おかえり」
 魔物は──そう「言って」いる。最愛の猫が自分の名前を呼んでくれている。
 だから自分も、その毛むくじゃらの胸に顔を埋め、それに応えて囁いた。
「ただいま──アサト」

.

 世界を塗り替えようとした魔術師との戦いのあと、コノエとアサトは、しばらくの間火楼近くの森で過ごしていた。戦いのさなか、黄泉路の入り口で会った歌うたいの力のせいだろうか──千切れかけた右腕は傷がふさがる程度には回復していたし、互いに満身創痍の状態からは脱していたが、それでも体は休息を求めていた。『虚ろ』の消え去った火楼の森なら、コノエの庭のようなものだ。コノエは薬草や木の実を摘み、それを食んで獣の姿になったアサトと寄り添うように眠った。
 アサトが元の姿に戻らないことに対して、消沈する気持ちはまるでなかった。
 アサトがアサトの心でいてくれて、二匹一緒に生きていられる。それ以上に求めることがあるだろうか。
 しかし数日後、狩りに来たのであろう猫に、二匹でいるところを見られてしまった。森の茂みぐらいでは隠せない黒い巨躯を目にして、猫は裏返った悲鳴をあげながら逃げ去って行った。
 このまま、ここにいてはまずい。
 魔物には多大な賞金が掛けられると聞く。時をおかず討伐の者が森にやってくることは間違いない。コノエは、事態を理解していないのか、喉を鳴らして擦りよるアサトを軽く叱咤して、火楼の森をでた。
 そうしてたどり着いたのがいまの根城だ。
 
 獣を狩るにも木の実を摘むにも、あまりうまみのない暗い森。あとで知ったことだが、この森は『虚ろ』の侵食が遅かったせいで、猫たちが押し寄せて獣の類は乱獲されてしまったらしい。『虚ろ』の消え去ったいま、猫たちの狩場は他の豊かな森へ移っているだろう。いわばここは捨てられた森なのだ。
 しかし二匹にとっては庇護の森だった。
アサトは切り立った山肌をその爪で穿って、わずか一日で洞穴をこしらえた。暗くひんやりとした穴倉も、二匹で抱き合えば暖かだった。コノエとアサトはそうして数日、冬眠のようにうつらうつら眠りながら過ごした。
 そうして、二匹の体も回復して季節も春──そして夏へと移っていった。

.

「アサト、窮屈だっただろ?もうすぐ夜になるし、外でこれ食べよう」
 コノエは、そう言うとアサトの前に麻袋をかざした。
 アサトは短く唸ると、コノエの体にそっと手を伸ばし、自分の懐にくるむように抱きこんだ。「──」アサトがまた小さく唸る。これは「しっかり掴まっていろ」の意。
 次の瞬間には、コノエの体は重力に逆らって宙にいた。アサトがコノエを抱きかかえたまま、高く跳躍したからだ。
 ほぼ垂直に切り立った山肌に足の爪をかけ、蹴りあげた反動でまたひと跳び。
 巨石のような体をものともせず、アサトは軽々とそれを繰りかえし、あっという間に崖の頂へと登りつめた。
 アサトはコノエを抱えたまま腰をおろし、そっとコノエの体を自分の膝の上に座らせた。
 目の前にひろがる景色は素晴らしいものだった。
 夕から夜へと移ろうとする空は、紺、橙、薄桃の諧調を描き、眼下の森はすでに夜の色に染まって、どこまでも続いている。見る場所は同じでも、景色は刻々と移り変わって同じものは二度とない。なんて美しいのだろうとコノエは思い、そう思えるのも生きているからだと実感する。
 アサトと共に生きているから────
 しかし照れくさいのでそれは口に出さず、麻袋に手を入れ、なかの木の実を取り出してアサトの口の前に持っていく。
「腹、減ってるだろ?」
 青い目が問い返すようにコノエを覗き込んでくる。「お前は食べないのか?」と、そう言っている。だからコノエは小さく笑うと「食べるよ」と言って、自分も麻袋からひとつ木の実を取り出して齧った。
 それを見てアサトもやっと、コノエの手に舌を伸ばし、掬い取るように木の実を口へと運んだ。
 そうして二匹は、夜空を眺めながらゆっくりと食事をした。
 正直、この量はアサトにとって充分ではないだろう。リビカと同じく、アサトも絶食に耐性はあるが、それでも体の大きさがまるで違うのだ。必要とする熱量もリビカよりずっと多いはずだ。
 本来ならば、アサトが狩りにでたほうがいいのだろう。実際その意を、アサトは唸りにのせてコノエに訴えたこともある。
 しかしこの森には大きな獣がほとんどいない。小さな鼠やトカゲならば体の小さいコノエのほうが狩るのに適している。そして何よりアサトの姿を他の猫の目に触れさせるわけにはいかなかった。いくら猫気が少ないとはいえ皆無ではないのだ。
 ここを追われたら他に安寧の地はないように思えた。
 だから、いまは多少実入りが悪くとも、自分が狩りにでたほうがいいとコノエは思っている。
「ごめんな……アサト」
「────」
 返す唸りは、何が?と問うている。
「お前をあんな狭いところに閉じ込めてさ。自由に動けるのは夜だけなんて……っ

 アサトの舌がコノエの頬に触れ、べろりと下から上へと舐めあげる。打楽器を鳴らすような音がアサトの喉から響いてくる。姿が変わってもそれは猫と同じ。甘く安らかな気持ちがもたらす音だ。だからコノエもそれ以上は言葉を続けず、アサト胸に背を預けて目を閉じた。温かい体、規則正しい心音、やがてコノエの喉からもくるる、と安らぎを告げる音が鳴る。
 言葉は通じないが、伝える方法はいくらでもある。だからだろうか。以前よりアサトの機微に敏感になったような気もする。
 初夏の甘い夜風を受けながら、二匹は想いを伝えるように喉を鳴らして互いに体を摺り合わせた。

 

.
 朝がきて、コノエはまた森へと足を運ぶ。
 いつもと同じように地面の草を踏みしめ、いつもと同じようにあまり育ちのよくない木の実を摘む。
 行動は同じでも、森の顔は日毎に変わっている。
 夏が近いせいか、緑のにおいが日増しに濃くなっている。 羽虫の類が多くなった。野鼠も今日はよく捕まる。荒らされた森もだんだんと豊かさを取り戻しているような気がした。そんな変化がコノエは嬉しかった。
 しかし──この変化は。
 木の幹につけられた十字型の傷。刃物でつけたような綺麗な切り口。断言してもいいが昨日にはなかったものだ。
 そしてその傷は一定の距離をおいて何本もの木につけられている。
 コノエはぞっとなって、辺りを見回した。誰かがこの森に侵入している。そしてそれはただの狩人ではなく……おそらくは剣の腕に覚えのある者。
 目を閉じ、耳を澄まし、気配を全身で拾おうと努めた。しかし聞こえてくるのは、遠くの鳥のさえずりや、草葉に潜む虫の声ばかりだった。
 しかたなく、慎重に辺りを見回しながら、木に傷をつけてない方角へと足を進めた。アサトの許へ戻るには少し遠回りになってしまうが、他の猫と出くわすことだけは避けたかった。
 しかし──もしも出くわしてしまったときは──
 腰に下げた剣に手を伸ばす。そのときには相手を殺めてでもアサトを守らなくては。
 動悸が高まり、脂汗が額を伝う。こんなことでは駄目だ。心を落ち着かせようと、コノエは立ち止まり大きく深呼吸をした。
そのとき──
「おい」
頭上から降る声に心臓が止まりそうになった。「ひっ」と小さな悲鳴が喉から漏れた。ほんの一瞬、体が竦んだその隙に、声の主は木から降り立ち、コノエの目の前に剣の切っ先を突きつけていた。
 硬直した体と同じく、コノエの視線は煌く銀の刃先に縫いとめられていた。しかしふと、その剣に既視感を覚え、顔をわずかに上向ける。その先には──  
 剣の刃と同じ銀色の髪、水面に張った氷のような薄青の瞳。そしてその片方を覆う黒の眼帯。
 その顔には見覚えがあった。忘れようもない。一時は彼に剣を習い、共闘の場に身をおいていたのだから。
「ライ………」
 そう呼ばれた凄腕の賞金稼ぎはコノエを見下ろし、ほんのわずか唇を笑みの形にしならせた。
「久しぶりだな。馬鹿猫」
 不遜な物言いも相変わらずだった。
 体から緊張が解けて、コノエは地面にへたりこみそうになったが、それを堪えてライを睨みつけた。
「なんでアンタがここにいるんだ!」
 精一杯の虚勢だったが、ライにはすっかり見抜かれていたようだった。フンと軽く鼻で笑われ、あしらわれる。
「決まっているだろうが。賞金首の魔物を狩りにだ」
 その言葉に肝が冷えた。やはりライがこの森に来たのは「そのため」なのだ。
「じゃあ、俺も聞かせてもらおうか。何故お前はこの森にいる」
 ライに問われ、言葉に詰まる。この森に猫が来たのも、それがライであることも、そのライにそう問われることも、数刻前にはまるで考えてもいないことだった。狼狽に目が宙を泳ぎ、尻尾がせわしなく揺れた。
「まさかとは思うが…お前も魔物狩りに来たとでも言うのか?」
 後ろ向きになっていたコノエの耳がピクンと立った。
「そ、そうなんだ!俺もそのためにこの森に来て……それで」
「……随分とくたびれたなりだな。どれほど長逗留している?」
 細めた薄青の目に見つめられ、コノエは自分のいまの姿に初めて気がついた。
 森に匂いを残さないよう水浴びは頻繁にしているが、身に纏っているものは、あちこちが綻び、擦り切れていた。確かに昨日今日森にはいった者のなりではない。
 またも口ごもるコノエを前に、ライは小さな溜息をついた。そして先ほどのからかうような声音から一転、恫喝のように低く囁く。
「……お前が魔物をかくまっているんだろう?」
 コノエの全身の産毛がざわりと逆立った。それでも──
「な、なんで俺がそんなことする理由があるんだよ!だいたい魔物と一緒にいてこうして生きていられるわけがないだろう!」
 なんとか反論を試みる。確かにライの言うことは図星ではあったが、コノエがそうする証拠も理由もない。
「べつにお前の理由などは知ったことじゃない。お前がそうしている事実があると俺が判断しただけだ。俺がそう思う理由が欲しいなら、そうだな──ひとつは、この森に魔物がいると知っている者はいない。他の賞金稼ぎの連中はいまだ火楼の森を探し回っている。ここに来たのは俺の独断だ」
 コノエは、息を呑んだ。てっきりこの森に魔物がいるとの手配が出ていると思い込んでいた。しかし、それなら自分だってライと同じ理由でこの森に入ったと言い張れる。
「それともうひとつは──お前から魔物の匂いがすることだ」
「!」
 そんなはずはない。体はほぼ毎日のように池で洗っているし、アサトの体からは特別な匂いは何もしない。ただ陽の月明かりを吸い込んだような、暖かい匂いがするだけだ。
 思わず自分の腕に鼻を寄せ、匂いを嗅いだ。やはりこれといった匂いはしない。
「……つくづく、わかりやすい猫だ。お前は」
 呟くライの声音は呆れを通り越して穏やかにすら聞こえた。はっとなってわが身を省み、血の気が引いた。……ひっかけられたのだ。
 見上げた先のライの瞳がすっと細まる。
「本当の理由は、お前の目だ。お前の目に狩られる側の怯えがあった。それはお前が狩られる者──魔物に近しくあるからだろう?」
 いよいよ返す言葉がなくなり、コノエは窮鼠の気分でうなだれた。
「魔物を引き渡せ──もちろん褒賞金はお前の取り分を多くしてやる」
 その言葉に弾かれるように顔をあげた。そんなことはできない。絶対に。
「ライ!」
 無理を承知で、それでも一縷の望みをかけて、コノエは縋りつく勢いでライに訴えた。
「ライ!あの魔物は、アサトなんだ!」 

 そうしてコノエは、事の経緯をライに話した。
 アサトが闇の力に呑まれ、魔獣へと変わってしまったこと、しかしいまはアサトの心を取り戻していること。誰に危害も加えない、迷惑もかけない。ただ二匹で静かに暮らしていたいだけだと、コノエは切々とライに訴えた。
 ライはそれをじっと腕組をして聞いていた。しかしコノエが言葉を結び、小さく息をつくと、それが合図と言わんばかりに
「で?それが何だと言うんだ」
 冷厳な一言を投げ返した。
「ライ……!」
「賞金首を始末するのが俺の仕事だ。それが魔物でなく猫だろうと、俺はそいつの中身などどうでもいい。たとえそいつに幾許かの善の部分があろうと、俺には関係ないことだ。懸賞金がかけられているものの首を取る。俺の為すべきはそれだけだ」
 甘さの欠片もない物言い。しかしそれは冷淡ではない。剣を振るってきた時間によって研磨された雄の鋭さだった。コノエにもそれはなんとなくわかった。情にいちいち動かされていては、賞金稼ぎとしてやっていくことはできないだろう。だからライに対して憤ることはできなかった。しかしそうだといって納得できるわけもない。
「お願いだ…ライ。虫のいいことを言っているのはわかっている。俺にできることなら何でもするから……だから」
 ライの胸元にかかるマントの端をつかみ、コノエはなおも言い募った。憮然と自分を見下ろす青白磁の瞳を見つめ、少しでも、少しでも自分の思いがわかってもらえればと、その一心で。
 ふ、とライの唇から笑いが漏れた。嘲笑にも似たそれに、やはり駄目かとコノエは唇を噛む。しかし。
「見逃してやってもいい」
 思いもよらない言葉に耳が立つ。
「ライ!」
「ただし」
 言いながら地面に突き立てていた剣を背に掛けた鞘へと収める。
「お前が、もう一度俺の賛牙として、俺の役に立てるというのなら、だ」
「……!」
「お前が賛牙として俺についてくるならば、魔物のほうは見逃してやる。森の奥で好きに暮らせばいい。この森に魔物がいると言うことも黙っていてやろう」
「………」
 確かにそれぐらいの「取引き」がなければ、この揺ぎ無い雄に見逃してもらうなどできないだろう。しかし、それも飲めない条件だった。願いは常に、共に在ることだ。
 いっそのこと……ライを。コノエが腰の剣に手を伸ばそうと、ほんのわずかに動かした瞬間。
 短剣を携えたライの左手がコノエの喉元へと押し当てられた。
 まさに瞬目の間だった。
 「馬鹿なことを考えるな。言っておくが、お前がいなくとも魔物の居所ぐらい探し当てられる。遅いか早いかの違いだけだ。それともここで死にたいか?」
 剣呑な言の葉とは裏腹に、ライの声音はわずかに愉色を含んでいた。思慮の足りない子供に苦笑するかのような。
  わかっていたが、まるで叶う相手ではなかった。相討ちにすらならないだろう。自分の不甲斐なさにコノエは小さく呻いて頭を垂れた。
「歌を歌ってみろ」
 数瞬の沈黙の後、ライが言った。
 ……やはりアサトを救うには、それしかないのだろうか。
 コノエは言われるままに、目を閉じ心の奥底に意識を集中させた。過去に歌ってきた調を思い描き、それを解き放とうとする。
 しかし、光の奔流はやってこなかった。
 二度三度と同じ手順を頭の中で繰り返す。しかし何度やっても同じだった。閉じた目の闇からはいっこうに光は生まれず、焦りで目の裏が軽く痛んだ。
「歌を忘れたか」
 ライの冷ややかな声が降る。
「わからない……リークスとの闘いのあと、一度も歌ってなかったから……」
 緊張に口が渇いて掠れた声がでた。賛牙としての自分の価値が失われれば、アサトを救う最後の望みも消えてしまう。
 ライがコノエを見つめている。何もかもを見透かすような居心地の悪くなる視線だった。このまま斬り殺されてもおかしくはないのだ。コノエは緊張に立ち竦む。握り締めた掌が汗でぬめった。
「七日月の間、待ってやる」
 ふいに放たれた一言。理解ができずにコノエは顔をあげた。
「え……?」
「わからないか?陽の月が七回昇って沈むまで、魔物を狩るのを待ってやると言っているんだ」
 ますます意味がわからない。
「歌を本当に忘れたわけではないだろう。こういうのは剣と同じで、時間を空けるとあっという間に調子を忘れる。特にお前のような未熟者は、だ」
 ムッときたが、いまは言い返すことはできない。
「考えるに、やはり貴重な賛牙をこんな森で眠らせておくことはできん。七日月の間にお前が歌を取り戻せば、俺はお前を賛牙として連れて行く。取り戻せなければ魔物の首をとる。幸いこの場所はまだ他の賞金稼ぎには知られてないからな。それぐらいの間、待ってやってもいい」
 相も変らぬ不遜さにコノエは呆れた。コノエの意思は欠片も考慮していないくせに譲歩してやっているかのような物言い。しかしそれでも、その申し出はありがたかった。七日月の時間があれば、何がしか好機が見つかるはずだ。
 しかし────

.

「~~~~………」
 アサトが低く、威嚇の唸りをあげている。
 無理もない。顔を合わせれば言い争ってばかりいた相手が、自分の住処のそばで野営の準備をしているのだから。
 銀髪の賞金稼ぎは、コノエとアサトの住む洞穴の入り口近くに、木の枝と布で簡単な天幕をこしらえている。その様子を少し離れたところで、コノエは半ば呆然とアサトは牙を剥きながら見つめていた。
「……なんで、アンタがここで寝泊りするんだよ。街に戻るんじゃなかったのか」
「馬鹿か。そんなことをしたらお前らは逃げようとするだろう。待ってやるとは言ったが、見張らないとは言っていない。それにお前が歌を取り戻すには俺の指南も必要だろう」
 まったく尤もな道理だった。
 コノエはしかたなく納得したが、可哀想なのはアサトだった。二匹きりの幸せな生活に闖入者が舞い込み、しかもそれがライときては。コノエはアサトを宥めるように何度もアサトの背中を撫で、その黒い毛を梳いた。
「アサト。少し早いけど水浴びに行こうか」
 コノエがそう言うと、アサトは小さく頷きコノエの体を自分の腕に乗せて抱えあげた。そしてそのまま肩にコノエを座らせると、林の外へと歩き出す。
「どこへ行く」
 背後から咎めるようなライの声がする。コノエは顔だけで振り向くと
「水浴びだよ。アンタが俺たちを見張るのは勝手だけど、俺たちはいつもどおりに好きにさせてもらうからな」
 精一杯棘を含ませ言い返した。アサトが同調するように短く吼える。そうだ。べつにライがいたところで気にすることはない。見張られるのは気分のいいものではないが、何も後ろ暗いことはない。普段の自分たちのままでいれば、ライもわかってくれるかもしれない。アサトが賞金首になるような、害なす存在ではないことが。
 草木枝葉をかきわけて山道を進む。しばらく歩くとわずかに空が開けて、目の前に森の緑をカガミのように映す水面がひろがった。
 そこは湧き池にしては大きく、だが澄みすぎた水に、生物の類は乏しかった。しかし近くに水の得られる場所は本当にありがたい。帰りには水を汲んでいかなくては。
 コノエが草むらに服を脱ぎ落としている間に、アサトはざぶざぶと池の中央にまで進み、コノエを促すようにひと鳴きする。
「ちょっと待ってろよ」
 コノエもようやく素裸になり、片足を池の水に浸す。水の冷たさに産毛がわずかに逆立ったが、かまわずに飛び込んだ。池の底は意外に深く、あっという間にコノエの体は肩まで水の中に浸かった。ゆっくり手で水を掻きながらアサトのもとまで進む。アサトは巨躯を屈めて、待ちきれないと言わんばかりに向かってくるコノエの体を引き寄せて抱きしめた。水の中でもその体は熱く、コノエは心地よさに思わず喉を鳴らした。そして頭をアサトの胸板に摺り寄せて、コノエはアサトの毛づくろいを始めた。アサトの広い体をすべて舐めてやることは無理だが、それでもコノエは思いをこめて小さな舌をアサトの黒い毛に走らせた。頭上でアサトの喉がぐるると雷鳴のように鳴った。

 ふいに背後で草を踏む音がした。
 コノエが慌てて振り返ると、池の淵にライが立っている。
 ここまで見張りにきたのか──少々忌々しい気持ちでライを睨むと、ライはおもむろに装備の金具をはずし、衣服を脱ぎ始めた。
「アンタ!何やってるんだよ!」
「俺が水浴びをしてはいけないのか」
 言いながらもライは上衣を脱ぎ、白いが引き締まった体を晒していた。なんとなく決まり悪い気持ちになってコノエは目を逸らした。
「べつに……悪くはないけど、何で、俺たちと一緒に浴びようとするんだよ」
「馬鹿が。無防備な状態はお互い一緒のほうがいいだろう」
 確かに──ライが剣を持っていない時を狙って逃げたり襲ったりすることもできたはずだ。しかしコノエはライに言われるまで、そんなことは微塵も考えていなかった。自分の馬鹿さかげんに恥ずかしくなる。

 しかしライはコノエの思惑を知ってか知らずか、脱いだ服の上に二本の剣を置くと、ゆっくりと池の水に体を浸からせた。手で水をすくい腕にかけ、優雅ともいえる仕草で毛づくろいを始める。
 アサトの喉から響くものが唸りへと変わった。コノエが顔を上向けると、アサトが牙を剥いてライを睨んでいる。コノエはアサトの気を鎮めようと、また毛づくろいを始めた……が。
「あ……っ」
 ふいにアサトの大きい手に抱えあげられ、その体をアサトの眼前まで持ち上げられる。そしてアサトの長い舌がコノエのわき腹を這った。
 舌はわき腹から胸を滑り、コノエの首筋までを一息に舐めあげる。もちろんこれは毛づくろいで、いつも水浴びのときにされてはいるのだが、今日はすぐ傍にライがいる。
「アサト……よせって」
 身を捩って小さく制止の声をあげる。しかしアサトはかまわずに、さらに舌でコノエの頬をくすぐった。アサトの舌は猫よりも若干ざらつきが少なく、熱くぬめる舌は、ただの毛づくろいで済まされない気持ちをコノエにもたらせるのだ。
「アサ……トっ、やめ」
 荒くなる息を抑えて、コノエが舌から逃れるようにもがくと、唾液で濡れそぼった体がアサトの手のなかでずるりと滑った。
 あ、と思う間もなくコノエの体はアサトの手を離れて、盛大な水音をたてて池に落ちた。
「───────!!」
 アサトが森に響き渡らんばかりの咆哮をあげて巨躯を水に潜らせ、数瞬の後、コノエの体を抱きかかえて勢いよく水から飛び出した。
 高くあがった水飛沫は、ライの上にも雨のように降りそそいだ。無言で眉だけを不機嫌そうに顰める。
 コノエは三、四度咳き込み、大きく息をついてアサトを見上げる。奇妙に頬骨の盛り上がった魔獣の顔は表情が伺いにくいが、それでも深い眼窩の奥に宿る目の色は、ひと目でわかるほどに悄気かえっていた。
 それがあまりにおかしくて、アサトに悪いと思いながらもコノエは吹き出し、アサトの胸板に顔を寄せてクスクスと笑った。
 アサトは、不可解そうに細く唸っていたが、コノエの態に安心したのか、やがて喉を鳴らし、コノエの濡れた髪をペロリと舐めた。今度は抵抗せずにコノエはされるままになった。そしてお返しにアサトの胸の毛も繕ってやる。
 そんな二匹の様子を、白猫は呆れたように眺めていた。
 

 .

 夜が来て、二匹はいつも通りに洞穴で抱き合って眠る。違うのは外にライが控えていることだが、それはもう気にしてもしかたがない。
 ライは……賞金稼ぎである以上に闘牙なのだとコノエは思う。
 本当に賞金首の魔物が狩りたければ、いくらでも機があったはずだ。たとえば先刻の水浴びのとき、いまこうして眠っているとき。油断している隙をついて自分とアサトの首を掻くことなどたやすいのではないか。
 しかしライは、それをしない。
 彼は約束してくれた。七日月まで待ってやると。
 ライの、闘牙としての誇り。それが彼を狡猾とは程遠い存在にしている。しかし自分は、どうだろうか。アサトを守るために、アサトと共にあるために、その誇りに唾する行動にでるかもしれない。たとえば……ライの賛牙になると言って油断させた隙に……。
 そこでコノエは考えるのをやめた。そんなさもしいことを考えるのは自分に力がないからだ。剣をふるって正面からライと渡り合いアサトを守れるなら、それが一番いい。そうできない自分の弱さにコノエは悲しくなる。
 しかし、とにかく、まだ時間は残されている。いまは眠ろう。そして七日月の間に何かいい案が浮かべばいい。

 朝がきて、コノエはまた森にはいる。そして今日からはライも一緒だ。
「……アサトを見張らないでいいのか?」と問うコノエに、「あれは、お前を置いて逃げたりはしないだろう」と一蹴された。確かにその通りだったし、アサトとライは一緒にしておかないほうがいいかと思った。あの二匹が対峙して生み出す不穏な空気は、闇の力もかくやとばかりの禍々しさだ。
 コノエは数歩後ろを歩くライの存在を気にしないよう努めながら、いつものように木の実や山菜を狩っていった。
 しばらくすると、背後でわざとらしいため息が聞こえた。その声量はあきらかにコノエに聞かせるためのもので、眉根を寄せて振り返ると、コノエ以上に憮然としたライの細められた目とぶつかった。
「………何?」
「お前は、いつもこんな効率の悪い狩りをしているのか」
「しかたないだろ!この森には生き物は少ないし、木の実も生りが悪いし」
「確かに、鹿や猪の類はいないな。大抵どこの森にもいるものだが」
「……なんでも『虚ろ』の侵食が遅かったせいで、狩り尽くされてしまったって……」
 コノエがそう言うと、ライはフンと鼻を鳴らして空を覆う枝葉の天井を見上げた。そして隙間から覗く陽の月を見て、しばらく思案するように黙り込む。
 訝しさにコノエが声をかけようとすると、ライは突然踵を返し森の奥へとはいっていく。迷いのない足取りは、何か目的があることを思わせた。コノエも慌ててその後を追う。
 二匹は無言で森の中を進んだ。陽の月がさらに高みにあがり、夏の光を木々の隙間に差し込ませるようになった頃、ようやくライはその足を止めた。
 激しい水音がする──ああ、あの場所か。コノエも思い至る。一応森のなかは一通り足を伸ばしているのだ。
 四方を覆う木の前方だけが開けたその場所は、急流を挟む深い谷だった。
 灰白色の岩肌が剥き出しになった谷向こうには、近いようで遠い距離だ。アサトの跳躍をもってしても渡り移ることはできないだろう。
「向こうの山には獣も多いだろうな……」
 コノエが歯噛みする思いで呟く。実際この場所で向こうの谷を下りる鹿を何度か見ている。
 コノエの呟きにライは応えず、無言で谷底へと目を向けていた。つられてコノエもそちらを見る。大地の裂け目のような岩間を白い飛沫をあげながら流れる川。見ていると吸い込まれるような心地になって腹の奥がむずかゆくなる。
「下のほうは、いくらか距離が狭まっているな」
 突然のライの呟きに、コノエはもう一度谷底へと目をやる。
 確かに岩がせり出して、谷向こうへの距離が短くなっている箇所がいくつかあった。それでも自分に渡り移ることは無理だろう。しかしアサトなら…。
 考えて、コノエは小さく首を振った。
「駄目だ…。アサトなら行けるかもしれないけど、谷向こうには他の猫もいる。アサトを他の猫の目に触れさせたくない」
コノエが呟くと、谷底を覗いていたライがゆっくりと振り返り、心底呆れたように眉間に皺を寄せた。
「本当にお前は馬鹿猫だな」
「なっ……何で!」
「何故、こっちが向こうに渡ることを前提にしている。獣のほうをこっちの森へ呼べばいい」
「え……?」
「あの奴隷は図体が大きいだけのただ飯食らいか?奴隷は奴隷らしく少しは働かせろ」

 そして二匹は一度洞穴まで戻り、アサトを同じ場所まで連れてきた。
 アサトは茂みを踏みつぶし、肩にかかる枝木をへし折りながら森を進む。静かな森がにわかに騒がしくなり、コノエは内心穏やかではない。
「誰も来なきゃいいけど……」
 コノエがひとりごちると、耳ざとく聞いていたらしいライが「心配するな。そのときは俺が斬ってやる」と平然と言うのでよけい肝が冷えた。冗談なのかもしれないが、この白猫が言うと、とてもそうは聞こえない。
 谷にさしかかる少し手前でライが立ちどまり、何かを物色するように辺りを見回す。そして「これがいいか」と呟くとアサトのほうに向き直った。
「おい。奴隷」
 ぶしつけな呼びかけにアサトは唸りで返す。しかしそれを軽く受け流し、ライは一本の大木を指し示す。
「この木を引き抜け。お前ならできるだろう」
 言われて、アサトとコノエは同時にその木を見上げた。幹はコノエの両腕がなんとかまわるほどの太さ。しかしまっすぐに伸びたそれは、森の天井を突き破らんばかりに高々としている。コノエが「できるか?」と目で訴えると、アサトはうなずき、その幹に両手を回し爪を立てた。
 唸りとともにアサトの肩の筋肉が盛りあがる。爪がバリバリと木肌に食い込む。 
 コノエの足元が揺れ、地中に張り巡らされた根が、血管のように地面に浮かびあがってくる。
「~~~~~………!!!」
 アサトが森に轟く勢いで吼えた瞬間、大木は土の塊を盛大に弾き飛ばしながら引き抜かれた。同時にあたりの木々も薙ぎ払われ、哀れな鳥が悲鳴のような鳴き声をあげて飛び去っていった。
「アサト!」
 コノエが喝采にも似た声音で呼びかけると、アサトは満足そうに喉を鳴らした。
 ライも少しは感心したのか、白眉を山なりにあげ目を細めた。
「よし。じゃあその木を谷まで運べ」
 物言いは相変わらず横柄であったが。

 引き抜かれた大木は、ライの指示のまま谷底へと落とされた。
 しかし川へは落ちず、先刻目を留めていたせり出した岩に引っかかり、谷と谷を結ぶ橋になった。ライが足元の大振りな岩を拾い、その木に向かって投げ落とす。岩をぶつけても木はびくともせず、どうやらしっかりと岩間に収まったらしい。
「うまくいけば、三日月もすれば鹿が渡ってくる。こちらの谷には鹿の好物のアメゴケが生えているからな」
 谷底を見ながら、コノエの胸はわずかに高鳴っていた。それは未来に対する期待でもあるし、ライに対しての……尊敬の気持ちでもあった。
「アンタ……すごいな。俺には全然考えつかなかった」
「お前の考えが足らないだけだろう。しかし考えついたところで……これに関しては俺だけじゃどうにもならなかったがな」
「それって……アサトのおかげだってことだよな?」
「そう思いたければ思っていろ」
 言い捨ててライはまた森にはいってく。コノエとアサトは顔を見合わせて笑いあった。端で聞けば獣の遠吠えのようなそれも、コノエの耳には優しく響いた。

 その後二日月の間に、コノエはライに色々なことを教えられた。
 鳥をくびる罠のこと。熟れていない木の実の食べ方。賞金稼ぎとして長く野宿することも多いライの、森に関する造詣は深くコノエは感心するばかりだ。
 そしてその合間に剣の訓練もあった。歌を取り戻すには体が闘いを思い出すことが必要だという。ライと剣を交え、体のほうはだんだんと勘を取り戻していったが、歌のほうはそれでもいっこうに蘇らなかった。
「なんでだろう……」
 胸の奥に調はある。しかしそれを解き放つことができない。いままで何故それが当たり前のように出来ていたのかが不思議なくらいだ。コノエがもどかしさに舌打ちするとライは
「焦るな。賛牙の能力はもとより不安定なものだ。剣と違い熟練より閃きのほうが勝る部分だ。とにかく心をできるだけ軽くしていろ」
 いつになく真摯な口調で言った。
 そう言われても、困る。だいたい自分を追いつめているのも不安にしているのもアンタじゃないか。
 コノエは、そう思ったが口には出さず、小さく頷いて足元の草を見つめた。

 ライの言うとおり、三日月めに、森に鹿が渡ってきた。
 谷近くの森で木の皮を食んでいた鹿を、コノエが追いたてライが剣で仕留めた。
 本当に久しぶりの大物だった。もちろん先々、獣を森に居つかせるために頻繁に狩ることはできないが、今日ばかりはいいだろう。
 二匹で鹿を担いでアサトの待つ住処へと戻った。
「ほら!すごいだろうアサト!今日は腹いっぱい食べられるからな」
 出迎えたアサトの前に鹿を横たえて、コノエは笑った。
 鹿の片足だけを切り分けて、残りはアサトに渡した。アサトの食べっぷりは実に見事で、はらわたから骨までバリバリと音をたててあっという間に食べ尽くしてしまった。やはり相当に空腹だったのだろう。いままでそんな素振りを微塵も見せていなかったアサトにコノエは少し胸が痛んだ。
 残りの肉もアサトにあげてしまおうか……。コノエが肉塊を見つめ逡巡していると
「馬鹿なこと考えるな。お前にだって血肉は必要だろう」
 いつもは決して洞穴にはいってこないはずのライの声が頭上に降った。驚きに振り返るとライは身を屈めコノエの前に置かれた鹿の足をひょいと担ぎ、洞穴の外へと歩きだした。
「お、おい……ライ!」
「いいからそこで待っていろ」
 言われてしかたなく、その場で待った。隣でアサトが不安げに唸る。自分の馬食ぶりを恥じているようだった。コノエは尾でアサトの体を軽く撫で、気にするなよと笑ってやった。
 しばらくすると、洞穴の外から何やら香ばしい匂いが漂ってきた。コノエが匂いにつられて外に出ると、ライが天幕の近くで火を熾していた。 一瞬、怖気が走ったがこの距離なら我慢できないこともない。
 コノエの気配に気づいたのかライが振り返る。そして火先にかざしていた木の枝をコノエに突きつける。先端には肉の固まりが刺さっていて、こんがりと焼けていた。脂のはぜる音にコノエは思わず唾を飲んだ。
「食え」
「あ……ああ」
 肉を受け取って洞穴に戻ろうとしたが、それも何か素っ気無いような気がした。   
 少なくともライは、コノエたちに協力するような義理はないのだ。それなのに彼は尽力を惜しまない。少しだけ、もう少しだけ気持ちを形にしてもいいのではないだろうか。
 しかし何をどうすればいいか、コノエにもよくわからなかった。しかたなくコノエはライから少し離れた地面に腰をおろし、そこで肉を齧り始めた。ライの耳がコノエの様子を伺うように、ぴくりと後ろを向いた。しかし振り返らずに言葉だけを投げてよこした。
「がっついて喉に詰まらせるなよ」
「うるさいな……」
「旨いか」
「……ああ、火の通ったもの食べるの、久しぶりだ。いつもは干したり薬草に漬け込んだものばかりだし……」
 食べながら喋っていたせいか、熱い肉汁が喉に飛び込んできてコノエはむせた。
 しばらく咳き込んでいると呆れたようなため息が聞こえてきた。
言い返そうとして、やめた。ライに聞きたいこと、言いたいこともいくつかあったが、結局どう言葉にしていいか、わからない。洞穴に戻ろうと立ちあがり、数歩歩いてコノエは立ち止まった。やはり、これだけはどうしても言わなくては。
「あの……ライ。ありがとう……」
 ライの応えを待たずにコノエは小走りで洞穴に戻った。だからライの太い尻尾が左右に大きく揺れたのをコノエは知らない。
 そしてその少し前に、二匹の様子をアサトが低く唸りながら見ていたこともコノエは知らなかった。

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