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2009年1月 5日 (月)

実りの歌

『 虚ろ』が去って数年が経つ。
 世界が死に瀕していたことなど忘れきった猫たちを、嘲笑うために「それ」は生まれたのだろうか。
 祇沙に拡がりつつある新たなる怪異。
 それは『虚ろ』のような、死に直結するような怖ろしいものではない。けれど厄介なものであることに変わりはなかった。
 藍閃から発したその怪異を、猫たちは『風羽』──かざはねと呼んだ。

「まったく、参った。今年の暗冬は『風羽』のせいで、観光客ががくっと減ってなあ。宿のほうも客がいつもの半分だった。まあ、楽なのはよかったがな」
 厨房から肉を煮る匂いと共に、バルドのぼやき声が流れてくる。暗冬が終わって三日月め。客のいない食堂で、コノエとアサトは神妙な面持ちで目配せをし合っていた。
『風羽』の噂を聞き、コノエとライは前の晩に藍閃入りした。アサトは四日月前から滞在しているという。いつもなら再会を喜び話が尽きぬ二匹だが、『風羽』の脅威を目の当たりにして、コノエはすっかり萎れた気分になっていた。
 組んだ手の上に顎をのせ、コノエは瞑目したままひとつ溜め息をついた。それを聞きつけたかのように、乱暴に床を蹴る足音が近づき、次いで卓に器の置かれる音がする。
「ほら、これでも食って元気だせ」
 声とともに、肉の匂いが鼻腔をくすぐった。 それに誘われてコノエが目を開けると、視界の端で揺れるものがあった。
 バルドが普段着ている前開きの服、そこからのぞくのはいつもなら硬い胸筋であるはずだった。しかしいま目に映るのは、柔らかさと弾力を併せ持つふたつの肉塊──雌の乳房に他ならなかった。
 何度見ても拭えない、その強烈な違和感にコノエは椅子ごと後ずさった。
「ア、アンタなあ!いいかげんその胸隠せよ!」
 コノエはうろたえて声を荒げたが、バルドは馬耳東風とばかりに頬を指でぽりぽりと掻いた。その顔も髭がすっかりなくなって、柔和な雌のそれになっていた。
「しかたねえだろ。合う服が他にないんだから」
 そう言いながら両手を当てた腰も、丸みをおびて柔らかなラインを描いている。コノエとアサトの目の前にいるのは確かにバルドだったが、その姿は見慣れた常宿の主人ではなく、一匹の雌猫だった。

 そう──藍閃の猫たちを脅かす怪異『風羽』とは、ある日、突然、なんの前触れもなく雄が雌に変化してしまう現象のことだった。

「俺が雌になったのはひと月巡り前あたりか。本当に痛みも予兆もまったくなかった。ただ身体のなかをヒュッと風が抜けるみたいな感じが一瞬した。それで気がついたら雌になってて。ありゃあ驚いた」
 コノエたちと同じ卓につき、バルドは、そうしみじみと語った。コノエは目のやり場に困り、うつむきながら料理を食べていたが、アサトは見慣れたのか、最初から何も感じていないのか平然としていた。
「風が抜ける……それで『風羽』って呼ばれているのか?」
 アサトがそう呟くと、バルドは
「それもあるが、羽虫でそういう名前のやつがいるんだ。幼虫のときは池のなかにいるんだが、そいつの羽化がまばたきする間にってぐらい早いんだよ。まあ、それになぞらえてな」
 そう言って指先を羽虫の羽のように揺らした。
「最初に『風羽』が起こったのはいつ頃なんだ?」
 コノエが視線を皿の中に当てたまま、バルドに問う。
「俺もはっきりとはわからんが、だいたい半年ぐらい前だったかな」
「半年前って……その頃俺たち藍閃にいたけど」
「ああ、あんたらが藍閃を出て、わりとすぐだったような気がする」
 半年前に、露天商の猫が突然雌になった。野菜を買おうとした猫が、財布から金を取り出し、顔をあげたときには、もう露天商は雌になっていたという。客も驚いたが、当の猫も卒倒せんばかりに驚き、あたり一帯は大騒ぎになった。藍閃中を揺るがすその怪異は、その後も無作為に猫たちに降りかかり、いまでは雌になった者は七、八十匹に及ぶという。
「最初は喜ぶ連中もいたんだがな。しかしこの勢いじゃ今度は逆に祇沙中の雄が雌になっちまってもおかしくない」
「それで領主が布令をだしたのか……」
 『風羽』の原因を突き止めた者、または現状の打開をした者には多額の報奨金をだす──その御布令を聞きつけ、ライとコノエは藍閃に来たのだ。藍閃入りした昨夜のことを思い出し、コノエはうつむいたまま、くすりと笑った。
 勝手知ったる常宿の扉を開けて、雌になったバルドを目の前にしたときの衝撃はコノエにとっても相当なものだったが、それ以上にライの様子がおかしかった。
 元々、バルドを前にしたときのライは眉根を寄せて不機嫌を顕わにしている。だから表情はいつもとほとんど変わりはなかったのだが、白い尾がぶわりと倍近くにも膨れあがっていた。おそらく全身も総毛だっていたに違いない。雌になったバルドは、年相応の見場であって、さすがに若い雌より容色は衰えていたが、それでも充分に艶があった。ふだんのだるそうな表情が秋波に見えるほどの色気があったが、それも元を知らなければの話だ。
 ライはよほど怖気を感じたのか、早朝から情報収集と称して街に出ていってしまった。ライの心中を察すると可哀想やらおかしいやらで、コノエはまたひそかにほくそえむ。
「しかし、ライのヤツ遅いなあ」
 まるでコノエの考えを読んだかのようなタイミングでバルドが呟いた。
 コノエははじかれるように顔をあげ、バルドの胸の谷間を正面から見てしまい、また顔を伏せる。雌の身体ひとつに調子を狂わされていることと、それがなじみのオヤジ猫であることが、どうにも忌々しい。
「……情報集めに出ているときは、もっと遅いときもあるけど」
 陽の月は落ちたがまだ宵の口だ。酒場などはこれからが賑わう時間で情報収集はむしろ夜からが本番と言っていい。しかしコノエも何故だか妙に胸がざわついた。藍閃全体を覆う、いつもと違う空気がそう感じさせるのか。
「俺、ちょっと様子見てくる」
 立ち上がり、コノエ駆けるように自室へ戻った。外套を羽織ってまた階段を下りるとアサトの姿はもう消えていた。
「アサトは?」
 片付けをするバルドの胸をなるべく見ないようにそう問うと、バルドは「外の空気吸ってくるって窓から出てったぞ」と返した。
 宿で再会するたび、アサトはわずかな時間もコノエと過ごしたがるが、それはコノエが単独でいるときのみだ。「ライとコノエ」の領分に決してアサトは踏み入ろうとしない。それがほんの少し、コノエには寂しかった。
 宿を出て、酔いどれた猫たちの隙間をくぐり、コノエは酒場へ続く路地へと入る。
路地の突き当たり、盃を模した飾りのついた木戸を開けると、煙草の煙と酒の匂いが同時に鼻をついた。今晩も酒場は盛況なようだ。
 店内に数歩、足を踏みいれ辺りを見回す。ライの白銀の髪は遊宴の薄暗がりのなかでも、ひと目でわかるほど目立つものだ。だからその白銀が視界にはいらなかったら、すぐに店を出るつもりでいた。
しかし。
「姉ちゃん」
 酔いにうわずった声がコノエの背にかけられた。
「あんたも雌になっちまったか?せっかくなんだから俺らと楽しもうぜ」
 コノエがふり返ると、小太りな黒斑と貧相なほど痩せた雉縞が下卑た笑いを浮かべていたが、コノエの顔を見るとしらけたようにおおげさに肩をすくめた。
「なんだ。雌かと思ったら餓鬼か」
 コノエはむっとなったが、とりあえず堪えた。賞金稼ぎが酒場でいざこざを起こすのはあまり賢くない。返事もせずに聞き流したふりをして、二匹の間をすりぬけようとしたとき。
 言葉と同じくらいに不躾な手がコノエの肩をつかんだ。
「な……」
「お前ぐらいのに『風羽』がくりゃあちょうどいいのによ。こないだ雌になったの…誰だっけか」
「山吹色の斑か。あんな岩石みたいなデカブツが雌になってもなあ。あんまり嬉しくねえよなあ」
 二匹はコノエを間にはさんで、酒臭い息を吹きつける。
「お前も『風羽』になってから、もう一度来いよ。きっと可愛い雌になるだろうよ。そしたら俺らがたっぷり可愛がってやるからよ」
 そう言って、哄笑に上向いた黒斑の顔に、コノエは無言で拳を叩き込んだ。間髪おかず、雉縞の腹に肘をいれる。
 よろめいたところを見逃さずに、雉縞の足に蹴りをいれて床に転がし、さらに腹に蹴りをいれた。雉縞は低く呻いてそのまま昏倒してしまった。
 とうに成猫になったというのに、いまだに子猫扱いされるのは、コノエにとって癪だったが、おかげでこういう荒くれた場では、大抵の猫がコノエを見くびって油断する。そのへんだけはありがたく利用させてもらっている。
「てめえ……!」
 黒斑は頭をひと振りすると、やおら突進して爪をだした右手をコノエに向けて振りあげた。
 コノエは水面で跳ねあがる魚のように飛びすさると、酒盛り真っ最中の卓の上に乗りあがった。客の猫たちもこんな乱痴気には慣れているのか、盃と料理の皿をそれぞれの手に持ち、そそくさとその場を離れる。
 追うように飛び掛る黒淵の爪を避け、コノエは卓の上で跳躍し、天井の梁に両手をかけた。
 遠心の力に身を従わせ、ついた勢いで黒斑を蹴り倒した、そのまま両手を離して身を躍らせて、コノエは扉近くの床に着地した。
 ライがいないとわかれば、こんなところに長居は無用だ。
 跳ねるように立ちあがり、コノエが扉に手をかけようとしたとき。
 尻尾を掴まれて、乱暴に引っ張られた。強い痛みに一瞬身体が硬直し、次いで力が抜ける。
 その隙をついて、コノエの身体は引き倒され床に転がった。
 どうやら、コノエの尾を掴んだのは、雉縞の猫らしい。伸びたふりをして床に転がったまま好機を窺っていたようだ。
「つ……」
 小さく呻いているところに、「おかえしだよ!」の声と共に雉縞の足がコノエの頭を蹴った。
 がつんとした衝撃と同時に目の前で火花が散る。
 周りの音が吸い込まれるように小さくなり、視界が白く明滅した。数秒か──数分か、とにかく自分は気を失っていたらしく、唐突に音が耳に戻ってきたとき、自分を囲む喧騒がさきほどと違ったものになっていることにコノエは気づいた。
 色めきたつような雄たちの声、ため息、口笛も聞こえてくる。そしてそれらを割って矢を射るように飛び込んできた聞きなれた言葉。
「起きろ──馬鹿猫」
 言われるままに、慌てて上体を起こす。視界に、白銀の髪と湖水の色の服が映った。
 ライ──求めていた姿を見つけてコノエは安堵した。だが数瞬後、得体のしれない違和感を感じ、コノエはいまだかすむ目をしばたかせた。
 腕組みをして自分を見下ろしている姿は、確かにライだったが、その腕のはざまで盛りあがっているものは……バルドの宿で見たものと同じ、雌の乳房だ。
「ライ……アンタまで雌に……!」
 言いながら、目を凝らし、コノエは息を呑んだ。
 こんな、綺麗な雌は見たことがない────
 雄のときから長かったライの睫毛は、いまや雪の結晶を乗せたかのように白く輝いている。白い面差しのなかで際立つ紅い唇。逞しい胸筋を包んでいた服の布は、豊かな胸に押し出されている。そして腰まわりの布も同じに豊かな曲線の形に張り出している。
 コノエが雌の姿を目にした機会は、それほど多くない。しかし、たとえ藍閃に雌が溢れていたとしても、いま目の前にいるライはきっと群を抜いて美しいだろうとコノエは思った。
「別嬪だねえ。あんたも『風羽』かい?」
 性懲りもなく、黒斑がライの肩に手をかける。ライは黒斑のほうを見ることもせず、瞬目の速さで短剣を抜き、黒斑の首筋に切っ先を押し当てた。
「……喉を掻き切られたくなかったら、そこを退け」
 雌とは思えないほど凄みの効いた声だった。
 黒斑が無言で後ずさると、ライは身をかがめてコノエの腕を引き、そのまま引きずるように店の外へ出た。コノエがちらりと顔だけで振り返ると、客の猫たちは棒立ちになったまま唖然とした様子で去っていく二匹を見つめていた。
 しばらく、腕を引かれたままほとんど駆けるように歩いていたが、盛り場を抜け、ライの歩調がゆるくなったのを見て、コノエはゆっくりと自分の腕を掴んでいる手から逃れた。
「……お前は、目を離すとすぐにいざこざに巻きこまれているな」
 前を見据えたまま、ライが呟く。まったく返す言葉もなく、コノエは無言でゆっくりとライの横に並んだ。……腹立たしいことに雌になっても、ライはコノエよりまだ背が高かった。大型種はやはり雌も身体が大きいらしい。
 返す言葉はなくても、聞きたいことは山ほどあった。しかし何から聞いていいものか。しかたなく「アンタも雌になったんだな」などと今更なことを呟いてみる。
「身体の大きさが変わったせいで、剣が思うところに入らん。慣れるのに少し時間がかかりそうだ」
 淡々とそう言うライに、コノエは少し呆れた。自分の性別が変わるという前代未聞の異常事態もまるで意に介していない。強さというものは、これぐらい泰然としていなくては手にはいらないのだろうか。
「それで……いつ、なったんだ?」
「今日の昼すぎだ。図書館に向かおうとしていていたところに、いきなり強い風が突き抜けるような感覚があった」
「それで気がついたら雌になってた……?」
 バルドのときと、やはり同じだった。
「でも……何でこんな時間まで戻ってこなかったんだよ。バルドは何でもなかったって言ってたけど、アンタは具合が悪くなったりとかしたのか?」
 コノエは問いながら、ちらりとライの顔を伺い見た。雄より柔らかい顔の造りであるはずなのに、不機嫌そうに眉根を寄せる表情は、雄のときとまるで変わらない険しさだった。
「……あの、もしかして……」
「何だ」
「バルドにからかわれるのが嫌で、戻れなかった……とか」
 ライが横目でコノエを睨む。それは無言の肯定だった。コノエは何も言わず、緩みそうになる口元を必死で引き締めた。
 こういうところがライはおかしい。
 朝方の湖面のように何にも動じないと思えば、瑣末としか思えないことにこだわっていたりする。
 そんなライのちぐはぐな部分もコノエは好きだった。
「とにかく戻ろう。バルドのことだから……まあ、絶対何か言うだろうけど、嫌なことなら早めに済ませたほうがいいだろ?」
 コノエがそう言うと、ライはコノエのほうへ向けていた視線をふいと前に逸らし
「……奴が何を言うかなど、だいたい察しはつくがな」と呟いた。

「なんだ!?ライ、お前も雌になっちまったか」
 宿の木戸を開け出迎えてくれたバルドは、ライを見るなり頭を上下に揺らし、その頭からつま先まで遠慮なく視線を走らせた。
「いやそれにしても……別嬪になったなあ……寄ってくる雄に肘鉄くらわせてて遅くなったか?」
 そう呟いて口元をほころばせるバルドに、ライは唸りにも似た溜息を吐き
「やかましい。貴様こそ、そのだらしない格好をなんとかしたらどうだ。淫売宿と噂をたてられたいか?」と言い返す。
 バルドは相変わらず、胸を放り出すような格好をしていたが、その言葉に思案するように顎に手を当てた。
「……そうだなあ。確かに若い雄には目の毒かもな。コノエも今朝からこっちをチラチラ見ちゃあ赤くなってたしな」
「な……!」
 アンタが勝手にそんな格好でいたからだろ!とんだ言いがかりだ、とコノエがバルドに目をやると、元親父猫は腰に手を当てわざとらしいシナをつくっていた。肩をおとし、横にいるライに視線を移すと、薄青の目がありありと呆れを湛えてコノエを見つめていた。
 からかいの種にされているのは、もはやライではなく自分のほうだった。

 部屋に戻ると、ライは大きく息を吐き、乱暴に寝台に腰をおろした。ぎしりという音とともに両の乳房が揺れる。コノエは一瞬目を背け、またライに視線を戻す。ライがいつになく疲れているように見えた。らしくないとも思うし、無理もないとも思う。いくらライでも雄から雌に変化するなどという状況がまったく心身に影響していないはずがない。
 コノエの探るような視線に気づいたのか、装備をはずしていたライが「なんだ?」と顔を上向けて問う。「なんでもない」と返し、コノエものろのろと外套を脱いだ。数年寝食を共にして、ライとコノエの間には沈黙も心地いい空気ができていたが、いまこの部屋を覆っている静けさは、あきらかに気詰まりからくるものだった。
 雌になっても、ライがライであることに変わりはないはずなのに。
 しかし雌の豊かな体の曲線が、どうしてもよからぬ情動を刺激してしまう。それをライに悟られるのが嫌だった。ライの体の異変を心配する気持ちも充分にあったが、それを表にだすのはライが嫌がるような気がした。どうしたら、いつものように振舞えるのかがわからなくなり、コノエは内心でひそかに混乱していた。
 膠着した空気を破ったのは、ライのほうだった。
「……最初からわかりきったことではあったが……」
「え?」
 コノエが顔を上げると、装備をはずし終えたライが剣の手入れを始めるところだった。
「今回の件、世界の理から大きく外れている。やはり……悪魔が絡んでいることに間違いはないな」
 その言葉に、コノエは落胆の溜息をついた。常軌を逸した事件であることははなからわかっていたが、それでもこの世界には、まだ数多の怪も不思議もある。
 自分たちの手の届く範囲のあやかしごとならと、わずかな望みを持って真を解こうとしていたのだ。
 しかし風羽をその身に受けて、ライはわかってしまったのだろう。これが『虚ろ』に匹敵するほどの根深い「魔」であることに。
 ライは窓から差し込む月あかりに、刃先を照らしながら言葉を続けた。
「何者かが悪魔を召喚して、雄が雌に変わる願を託した。こういう場合、まずそれをして得をする者を探るのが常套だが難儀なことになりそうだ。範囲も目的も茫洋すぎる」
 ライが何度めかの溜息とともに唇を閉ざしたとき。
「……そうでもない……」
 コノエが小さく呟いた。
 その乾いた声音に、ライが胡乱げな視線を向けた。寝台に腰掛けたライの前に立ち、目を閉じ俯いたままコノエは訥々と言葉を継いだ。
「……召喚される悪魔にランクがあるように…召喚する側の猫にもランクがあるんだ。まったく魔術に覚えのない市井の猫が感情だけで悪魔を呼んで、それで体も魂も全部捧げたところで、せいぜい猫を呪い殺すくらいのことしかできない……」
「お前……」
「世界に異変をもたらすような……そんな願いを悪魔に聞かせることができるのは、よほど高名な魔術師かあやかし使いか……とにかく…」
「コノエ!」
 ライの叱する声とともに、強く腕を掴まれ引き寄せられた。コノエが目を開けると、眼前に深く眉を寄せたライの顔があった。こんなときでも、白くけぶる睫毛がきれいだとぼんやりとコノエは思う。
「……お前、またリークスの記憶を手繰ったな」
 声音に怒りがにじんでいた。
「……これぐらいならたいしたことない」
「馬鹿か!自分から生傷を掻きむしるような真似をして、俺が喜ぶとでも思っているのか」
「……ごめん……」
「馬鹿猫が……」
 ライの怒りを買うことはわかっていたが、コノエはこうしてリークスの記憶を紐解くことがあった。
 あやかし絡みの依頼があったときなどに。
 リークスの記憶、膨大な魔術の知識は藍閃の図書館など足元にも及ばない。しかしそれには毒沼のような闇も寄り添っていて、ひとたび記憶を紐解けば闇はコノエの手足に絡みつき、癒えない心の傷に潜り込んでは血をしぶかせる。現にいまも、喉奥から血がせりあがるような吐き気に襲われていて、唇が震えるのを必死で堪えているところなのだ。
「でも……わからないまま闇雲に動くより、的が絞れたほうがいいだろ?ランクの高い魔術師はそういるものじゃないし……そこから調べていけぱ……」
「もういい。喋るな」
 そう言ってライは、コノエを自分の傍らに座らせ、抱くように肩に凭れかけさせた。張りつめていたものがたわんで、コノエの体が震える。悲しくはない。むしろ感情はひどく遠くに感じるのに、涙が勝手にだらだらと流れた。
 ライの肩に濡れた頬を擦りつけていると、ふと甘い香りがコノエの鼻を掠めた。
 それは母猫の匂いを思い出させた。
 おそらく雌の乳房そのものから立ちのぼる匂いだろうと、コノエはうっすらと思った。その懐かしさのせいだろうか。乳房がすぐそばにあるのに、不思議と気恥ずかしい気持ちはない。
 リークスの闇に囚われそうになると、いつもライがこうして黙って肩を貸してくれた。大きく広い肩、硬い筋肉、髪を撫でてくれる骨ばった手。
 いま寄り添っているライは、それと対極の存在であるのに、与えられる安らぎは同じだと感じた。
 ライだからだ──ライが与えてくれる安らぎだからだ。
 コノエは大きく安堵の吐息をついた。尻尾をライのそれに絡ませて、もう大丈夫だと無言で伝えた。そして、もう雌のライともいつも通りに接しられると思う。
「ライも疲れてるのに……ごめん。寄りかかって」
 コノエが呟くと、「馬鹿猫」という一言が薄青の闇の中に落ちた。

「あ、コノエいらっしゃい!久しぶ……り」
 半年ぶりに訪れるトキノの店。カウンターで店番をしていたトキノは、店の戸をくぐるコノエを見て破顔し、後に続くライを見て硬直してしまった。コノエがちらりと後ろを振り返ると、ライのうんざりした表情が見えた。行く先々でこのような反応をされるので相当辟易しているようだ。
「あ……ライさんも、雌になっちゃったんです……ね」
 言いながらトキノの頬がみるみる赤らんでいく。視線はあからさまにライの胸に注がれていて、どうしたってこれは雄に抗うことはできないなとコノエは心中で深く頷いた。
「ところでさ、トキノ。藍閃で名のある魔術師っているかな」
 ライへの視線を遮るように、コノエはカウンターに肘をついてトキノの眼前を塞いだ。我に返ったらしいトキノはすぐに商い猫の顔に戻った。
「名のある魔術師?」
「ああ。『風羽』はたぶんその手の連中が関わっているって見てるんだ。心当たりとかないか?」
 トキノは人差し指を眉間に当てて、しばらく考え込んでいたが
「うーん……俺が知るかぎりでは、やっぱり星見の呪術師ぐらいだと思うけど……そこへは行ってみたの?」
 トキノの問いにコノエは苦笑いで返した。
「行ってみたけど……呪術師も雌になってた」
「うわ……」
 そうなのだ。この手の尋ねごとならば、まず呪術師を一番に当たるのが早道だ。しかし半日をかけて辿り着いた祠の先で、待っていたのは雌になった呪術師だった。
 厚く纏った服のせいで体がほとんど見えないので、すぐには気づかなかった。しかし
「おお、やはり来よったか」
 椅子に寝そべったままそう言葉を発した呪術師の声が、琴の音のように高く澄んでいて、コノエは息を呑み自分の生唾にむせて激しく咳き込んだ。後ろを見ずともライの呆れた視線が背中に刺さるのを感じた。
 なんとか平素を取り繕い、コノエは訳を話し、高名な魔術師に心当たりはないかと聞いてみた。
 呪術師は自分の身に起こった事態を面白がっているようで、唇に笑みを浮かべて唄うように答えた。
「此度の事象、形にすれば「球」のようなもの。因は果になりまた因となり。裏と表、始まりと終わり。それらを全部丸めて為してものじゃ」
 いつものことだが、呪術師の言葉はコノエの耳にはまるで意味のあることに聞こえず、訝しい視線を返すことしかできなかった。
「機が熟せばおのずと転がっていくということよ。慌てるでないぞ。いまはただ五感を澄ましこの異変を味わっていればよい」
 呪術師には、やはり何かが見えている……とコノエは思った。しかしそれを聞き出そうとしても無駄だろうということもわかっていた。この食えない猫に、のらりくらりと言葉遊びでかわされてしまうだろう。
 そうしてたいした収穫もなく、二匹はまた藍閃に戻ってきた。
「そうだったのか……ごめん役にたてなくて」
 事の経緯を聞いてトキノは申し訳なさそうに耳を伏せた。
「いや、俺のほうこそごめん。いきなり来て変なこと聞いて」
 コノエが慌ててトキノの眼前で手を振ると、友猫は優しい笑みを返してくれた。が、一拍の間をおいてやるせなさそうに溜息をついた。
「呪術師まで雌になっちゃうなんて、本当に誰がいつ雌になってもおかしくないんだろうね……。半年前には藍閃がこんなことになるなんて夢にも思わなかったよ」
「半年前か……」
「うん。ほら大通りのドーナさんのところで子供が生まれただろ。一緒に祝いもの届けてまわって」
「ああ。覚えてる。あのとき確かにもっと藍閃に子供が増えればいいって思ったけど……」
 そのとき、店に客がはいってきたので、コノエはカウンターから離れた。客が品物を買って、店を出たとたんトキノの顔から笑顔が消えた。コノエがまたトキノの前に立つと、友猫は自嘲めいた笑みを浮かべた。その顔は商い猫ではなく、一匹の少年の顔だった。
「俺さ……不安なんだ。いま藍閃じゃ毎日のように誰かが雌になってる。俺もいつ雌になってもおかしくないんだなって……そりゃ、失躯みたいに死ぬようなものじゃないけど……」
 トキノの尾がゆらゆらと忙しなく揺れる。
「でも自分が雌になるなんてまるで想像できない。なんか……怖いよ。自分が丸ごと変わっちゃいそうで」
「何も変わりはしない」
 トキノの弱々しい呟きを遮った言葉にコノエが振り向くと、店内を物色していたライがいつの間にすぐそばにいて憮然と腕を組んでいた。
「雌になろうと、何が変わるわけじゃない。これまでと同じだ。安心しろ」
 トキノは数瞬、呆気にとられていたが、すぐに姿勢を正し「すいません」と頭を下げた。自分が漏らした言葉がすでに雌になっているライに対して礼を欠いたものだと気づいたらしい。
 ライはフンと鼻を鳴らすと、カウンターの上に干し薬草の束を放るように置いた。
「これをもらおうか」
「あ……ありがとうございます」
 トキノがぎくしゃくと薬草を袋に詰めるのを、コノエは何も言わずに見ているだけだった。トキノの雌になることへの不安も、ライのそれを馬鹿馬鹿しいと思う気持ちも、どちらもなんとなくわかるのだ。
 だから、何も言うことができなかった。

 トキノの店をでて、二匹は市場を練り歩いていた。祭のあとでも猫の多さと活気は相変わらずで、コノエは猫波に呑まれないように必死でライの後をついた。
 そうして、ただ歩いているだけでも雌の姿がちらちらと目にはいった。屋台の軒先で呼び込みをしている雌、品物を大声で値切っている雌、以前の藍閃なら考えられないことだ。
 そして、ライの言うとおりだとコノエは思った。その雌たちは、雄と変わらない服を着て、雄のように威勢のいい声を掛け合っている。以前娼館で見た雌とはまるで違って見えた。
「……本当に何も変わらないんだな」
 独り言のつもりの呟きだったが、ライの耳には届いていたらしい。
「雌になったからと言って、急に着飾りたくなるものでも物言いが変わるわけでもない」
「アンタがそうなったら怖いな」
 あの娼館で見た雌猫が着ていたような、華やかな服を纏ったライを想像してコノエはわざとらしく嫌な顔を作って見せる。
「お前が雌になったらさぞやしっくりくるだろうな」
「アンタな……!」
 軽い憎まれ口を叩きあいながら二匹は市場の喧騒を通り抜けた。前を遮る猫が少なくなると同時にライの歩幅が大きくなり、数歩先が数十歩先の距離になる。これはいつものことなので、コノエも歩速をあげてライの後を追う。ライが雌になってもこんなところもまるで変わらない。
……もし、『風羽』が解消されることがなくても、もし、自分が明日雌になってしまっても、案外世界も自分たちも普通にやっていけるのではないかとコノエは思った。『風羽』は怪異ではあるが『虚ろ』のように絶望をもたらすものではない。それだけは確かだった。
「しかし……あれが来たらまったく変わらないというわけにもいかないだろうな」
「あれ?」
「……発情期だ」
「……あ……」
 毎年のことなのに、すっかり失念していた。早ければあと数日で祇沙はその時期を迎えてしまう。空気まで違う色に染まるかのような、猫たちの恋の季節。
 何度もその季節をライと迎えた。そして必然のように抱き合ってきた。しかし今回は勝手が違う。自分は雄で、ライは雌で。
 ライを抱くということを考えただけで、コノエは気が遠くなった。手管は雄同士のときとあまり変わらないだろうと思うが、雌の体のことなど何もわからない。そもそも自分にライが身を委ねることが想像できない。
 考え込むうちにすっかり足は鈍くなり、気がつくとライは見失うほど先を歩いていた。小走りにその背を追いながらコノエは頬がすっかり熱くなるのを感じていた。

 発情期の時期は七日月をふた巡り。
 コノエとライの発情期は、毎年その時期の半ば過ぎに訪れる。だからその前に『風羽』を解消できればいいとコノエは情けないことを考えていたのだが、それは叶わなかった。
 その目覚めは、悪い夢から覚めたときに少し似ていた。自然な目覚めではなく何かに追い立てられるような。
 コノエが半身を起こすとそれだけで眩暈がした。「ああ……来た」と忌々しく吐いた息がすでに熱い。体が昂ぶるのはいつものことだが、それでもここまでになるのはたいがい日も暮れる頃で、朝のうちはもっと穏やかなはずなのに。
 額を押さえながらコノエが隣の寝台に視線を移すと、ライは窓枠にもたれて毛づくろいをしていた。腕に這わせる赤い舌にコノエの心臓が跳ねあがる。見慣れている光景のはずなのに、ライの濡れた舌がひどく蠱惑的で、目を離すことができなかった。
 涼しい顔をしているくせに、ライの体からは発情した雌の匂いが立ちのぼっていた。その匂いを嗅ぐのは初めてだったが雄の本能がそうだと知らせていた。衝動がいつもより強いのも、きっとそのせいだ。
 コノエの視線に気づき、ライが顔を傾ける。薄い笑みを唇に浮かべて
「なんて物欲しそうな顔をしている」と囁いた。からかわれているはずなのに、その声はひどく甘く聞こえてコノエの尾がぶるりと震えた。
──なのに。
「……雌の体というのは案外衝動が弱いものだな」
 言いながら、ライは身支度を整え始めた。コノエが起き抜けの姿のまま呆然とそれを見ていると、やおら立ちあがり、壁にかかっているマントを手にとった。
「少し出かけてくる。お前はここで留守番をしていろ」
 無慈悲ともいえる言葉を投げて、ライは部屋を出て行ってしまった。
 残されたコノエは、糸の切れた傀儡のようにまた寝台に倒れこんだ。
 ライの去った部屋は雌の匂いも薄れ、コノエは衝動が穏やかになっていくのを感じた。
 しかし入れ替わりに悶々とした気持ちが広がっていく。
 ライが意図の見えない行動をとるのはよくあることだった。けれど、いつものことだと言い切るには、いまの状況はやはり異質だった。
 雌のライは、雄の自分と抱き合うのが嫌なのだろうか。
 そんな馬鹿なことをつい考えてしまう。
 苛立ちと火照りに、コノエは何度も寝返りをうった。食欲もなかったし、ライ以外の雌に接触したくなかったので食堂にも行かず、ただわが身を抱きながら時間が過ぎるのを待った。

 ライが戻ってきたのは、陽の月が沈もうという頃だった。
 戸の蝶番が軋む音にコノエが顔をあげると、とたん雌の匂いが強く香った。
 ライは無言で部屋にはいり、そのまま装備をはずし始めた。その横顔は、出て行ったときと変わらない涼しげなものだったが、ほんのわずか表情に高揚の色があるのをコノエは見てとった。
「どこ行ってたんだ……?」
 コノエが問うと、ライはコノエに一瞥をくれ「この体にもようやく慣れた」などと言う。
「え……?」
「ようやくこの体での剣の間合いが掴めたと言っている」
 そういえば少し前に、この体では剣が思うところにはいらないと言っていた。
「剣の訓練でもしていたのか……?」
「似たようなところだ」
 その言葉にコノエは胸を撫でおろした。確かに闘牙のライにとっては、体の変化からくる違和感は問題だったろう。けれどその訓練をなにもこの日しなくても……とコノエがちらりと思ったとき。
「やはり実地が一番手っ取り早い」
 聞き流せない一言をライが呟いた。
「実地……?」
「街のならず者の相手をしていただけだ」
 ライの言葉の欠片がコノエの頭のなかで合わさり、見えなかった意図を浮かびあがらせる。コノエの胸にじわりと怒りに似たものがひろがった。
「アンタ……まさか雌の匂いに寄ってきたやつらをのしていたのか?」
「安心しろ一匹たりとも殺してはいない。青あざ程度で済ませている」
「ライ!」
 我知らず声が荒いでいた。
「アンタ……なに考えてるんだよ!自分を餌にして剣試しなんて……こんな、みんながみんな発情してるような時期に……危ないじゃないか」
「危ない、だと……?」
 低い呟きとともにライの目が細められる。
「お前は何か?俺がならず者に遅れをとって慰み者にされる心配をしているわけか」
「だって……大勢にいっせいに囲まれたりとか……万が一ってこともあるだろ」
「見くびられたものだ」
そう言ってライは短剣を鞘ごと寝台の上に放った。
「どいつもこいつも……俺が雌の体だというだけで根拠のない優越をもち、勝手に匂いつけしようと寄ってくる」
 すべての装備をはずし終え、ライはコノエの前に向き直った。挑発的に目を細めたまま、一歩、二歩とコノエとの間を詰めていく。
「お前も……そうか……?」
 ライの手が伸び、コノエの頤を捉えた。触れ合った部分に痺れが走り、コノエの体がおおげさに竦んだ。
「雌になっても何も変わらない……変えようとするのはむしろ周りのほうだ。俺が欲しいのは賛牙の支援であって雌に対する庇護じゃない」
 宵闇が忍び込む部屋のなか、目の前に立つライは、さきほどとは打って変わってぎらぎらとした光を目に湛えていた。その表情すら妖艶で腹の底から震えがくる。コノエが惑乱を逃すように「……ライ…!」と呟くと、そのまま引き寄せられくちづけられた。
「んっ………」
 雌の唇は驚くほど柔らかく、忍び込む舌は熱かった。ライの左手がコノエの腰にまわり、さらに強く抱きこめられる。豊かな乳房がコノエの胸板に押しつけられ未知の感触に陶然となった。
 ライの唇がわずかに離れ、甘い息を吹きつけられる。たまらなくなってコノエはまた縋るようにライにくちづけた。乳をねだる子猫のようにライの唇を夢中で吸った。
「がっつくな……」
 ライが笑みまじりに囁き、コノエから体を離す。すぐさまトンと胸を押され、一日発情の熱に翻弄されたコノエの体はたやすく揺らいで寝台の上に倒れた。
 惑いにしばらく動けずにいると、ライはおもむろに上衣を脱ぎ落とし、白い乳房をコノエの前に晒けだした。
「ラ……イ……」
 コノエの震える声をからかうこともせず、ライはそのままてらいもなく下衣も脱ぎ捨て一糸纏わぬ姿になった。コノエの顔に血が集まり、胸が苦しいほど上下した。滑稽なほどにうろたえるコノエに対してライは微塵も羞恥を感じていない態で寝台に乗りあがった。
 コノエの身体を跨ぎ、覆いかぶさる形になってライはコノエを見下ろした。白い乳房が文字通りコノエの鼻先に迫っていた。
 おずおずとそれに手を伸ばす。ゆっくりと掌でくるみ、少しづつ指を沈ませる。感触は滑らかでしっとりしてそして少しだけ冷たかった。
 ライはコノエをじっと見るだけで、これといった反応は示さない。まるで試されているようだった。けれどその静けさに少し安心して、コノエはライの乳房を揉みしだいた。そうするうちに、それぞれの乳房を彩る薄紅の部分がゆっくりと膨らみを増してきた。誘われているような気持ちになって、コノエは右の乳房に顔を寄せ、それを唇で挟みこんだ。
「…………」
 ライの唇から漏れる吐息がほんの少し艶を含んでいるような気がした。とたん、もっとライを煽りたいという欲が沸き、コノエはさらに吸いあげ、舌で転がした。なのに──
「赤ん坊か」
 せせら笑うように呟かれて、冷水をかけられた気分になった。しかし上目でライの様子を伺うと白磁の頬に見たこともないほど赤みが差していた。
 それを見た自分がどんな顔をしていたのか、コノエにはわからない。けれどいきなり鼻をつままれ
「調子にのるな」と睨めつけられた。
 ライは身体を起こすと、コノエの服を乱暴に剥ぎ始めた。チュニックの前を開き、上衣をたくし上げる。戸惑いながら為すがままのコノエだったが、ライの手が下衣に伸びたときにはさすがに慌てた。
「ライ……ちょっと、待っ……!」
 コノエはライの手を押さえ身を捩った。いまさら恥ずかしがる間柄ではないはずなのだが、雌との行為は初めてで、しかもライに主導を取られてばかりでまるで心の準備ができていない。
 下衣を一気に下着ごと引きずりおろされた。
 コノエの雄茎はすでに硬くいきり勃ち、先端にはぬめるものが滲んでいた。
 何故かほんの少し屈辱のようなものを感じて、コノエは唇を噛む。雄の欲はなんてあからさまで無様なんだろうと思う。
 ライの白い指先が雁首を挟みこみ、捏ねるように擦りたてた。尾から背筋に痺れが走る。いまにも果ててしまいそうで、コノエは固く目を閉じ、波をやり過ごそうとした。
 ふとライの愛撫の手が止まる。波が引きコノエは目を閉じたまま安堵の息をつく。しかし数瞬後、コノエの先端に「何か」が触れた。それは熱く濡れた感触だった。
 コノエが目を開けると、コノエに跨ったライが自分の雌の部分にコノエの雄を招きいれようとしているところだった。
「ライ……!」
「じっとしてろ……」
 ライが唸るように囁いた。
 発情期は、痛覚が鈍くなっていてコノエがライを受けいれるときも、身体が痛みを感じることはあまりない。だから雌の身体もとうに準備はできていたのだろう。しかしライが身体を沈めコノエの先端がめり込んだとき、そこがあまりにきつくてたじろいだ。痛みさえ感じるほどで、本当に正しい場所に挿れているのか不安になった。
「だ……大丈夫か……」
 コノエがおそるおそる声をかけると、ライは眉根を寄せながら閉じていた目を薄く開け
「……俺よりも……自分の心配をしたらどうだ……」
 そう言って大きく息を吐いた。それにつられるようにライの身体がさらに沈み、いつのまにかコノエの雄茎は根元までライに呑みこまれていた。
「あ…あっ……!」
「………っ…!」
 二匹の唇から同時に呻きが漏れた。
 熱くて、柔らかくて、なのに先端から根元までぎっちり戒められているようにきつい。
 初めて味わう感触にコノエの唇は震え、啜り泣きのような喘ぎが漏れた。上目でライを見ると、ライもまた額に汗を浮かべながら荒い息をついていた。ちらりと覗く牙が艶かしかった。
「ライ……」
 名前を呼ぶ以外、かける言葉が思いつかない。だからそっとライの両頬に手を伸ばし、労わるようにさすりあげた。しばらくの間、ライはコノエを見つめながら胸を喘がせていたが、やがて身を屈め自分の唇をコノエのそれに寄せた。互いの呼気と濡れた音だけが部屋に響く。
 舌を絡ませあっているうちに、繋がっている部分が柔らかくなるのをコノエは感じた。ライの鼓動に合わせてそこもひくひくと動き始め、むずがゆい刺激が身体の中心から拡がり始める。
 唇と下肢、両方を繋げたまま、ライがやおら腰をくねらせた。
「……ん、んんっ…!」
 ぞくぞくとしたものが背を駆け、コノエはライの唇を噛みそうになる。息をつめ下腹に力を篭めたが、ライがさらに大きく腰を揺すったとたん、焦らしに焦らされたそこはライのなかで張りつめて弾けた。
「あっ……あ、っあ……は……っ」
 がくがくと身体が震えて、法悦の声が抑えられない。互いの粘膜は熱く溶け合うようで、自分がライに注いでいるのか、ライが自分を絞りとっているのか、それすら曖昧となっていた。
 しばらく互いの湿った身体と鼓動を重ねていたが、やがてライが身を起こし、繋がっている部分からゆっくりと身体を離した。
「う……」
 ライが小さく呻くのが聞こえた。大丈夫かと目で問うと、ライはそれに応えず黙って乾いた布を放ってきた。コノエが濡れた部分を拭っていると、ライはコノエの隣に横たわった。
「他愛もないな」
 無遠慮にそう言われて、言葉に詰まった。確かに最後までライに主導を握られたままなうえ、長く保たせることもできなかった。雄としてまったく不甲斐ないことだ。
 気落ちしてコノエが背を背けると、「おい」と呼ばれた。黙っているとしばらくしてもう一度「おい」と声がする。
 しかたなくコノエが顔だけで振り返ると、シーツの上で頬杖をついているライと目が合った。
 その目には、からかいも呆れも侮蔑もない。事後の火照りに潤んでとても優しいまなざしに見えた。
「……まだ、できるか?」
「え……?」
「俺を満足させてみろ……」
 後ろ抱きにされ、耳に囁きを吹き込まれた。発情期の衝動はさきほどの情交ですっかり治まっている。けれどコノエの雄はその一言でまた固さを取り戻していた。
 いまのがライの精いっぱいの媚態なのかと思うと少しおかしい。けれどそれに揺さぶられている自分も充分におかしい。
 コノエは身体をライの前に向き直し、この日何度めかのくちづけを交わした。

 それからは夢中だった────
 ライは自分の身体をコノエの自由にさせることを許してくれた。それが嬉しくてコノエはライの白い肌にくちづけ、まろやかな肢体を掌で味わった。
 雌の部分には慎重に指を這わせた。雄のとはまるで違って、乱暴にしたらすぐに傷つけてしまいそうで、だからとても大事なもののように思えた。
 足を開いたライの狭間に身を割りこませ、コノエはまたライと身体を繋いだ。
 また波にさらわれそうになるのを懸命に堪えて、ライの内を擦りあげた。
 かすむ意識のなかで、ライがのけぞり小さく叫ぶのを聞いて、コノエはライのなかに吐精した。
 身体はどろどろに疲れて、けれど満ち足りた心地になって、コノエはライと繋がったまま眠りに落ちてしまった。

 次の日の朝、食堂に行くとバルドが口端にぬるい笑みを刻んで待ちかまえていた。
「おお。コノエどうだった?上手くやれたか?雄としての一世一代の晴れ舞台は」
 ある程度予想していたことだったが、あまりにその通りでコノエはがっくりと肩を落とした。
 ライは自分で調達した木の実をかじって、さっさと宿を出て行ってしまったが、自分もそうすればよかったと席につきながらひっそりと後悔した。
「どうだった?ライは。あんな別嬪を抱けるなんてお前は祇沙一の果報者だよ」
 そう言いながらバルドは卓に朝食の皿を置く。いまのバルドは胸を布で巻いて隠しているので、遠慮なく睨みつけることができた。
「そういうアンタはどうなんだよ!発情期は済んでるみたいだけど、どうしてたんだよ」
 意趣返しの気持ちでコノエが言い返すと、バルドは一瞬黙り込み、次いで「まあ……そこはそれなんというか……な?」などと言葉尻を濁す。
 なんだか問いただすのが怖くて、それ以上は追求しなかった。

 朝食を終えてコノエは街へ出た。
 あれから色々と調べてみたのだが結局、藍閃には名のある魔術師はいないということだった。
 なんでも猫の多い場所は気が濁るということで、魔術師はもっと静かな村に定住するものらしい。
 ならば、ライと自分はしばらくしたら藍閃を発たなければならない。いまのうちに武器の手入れや入用の物を買いそろえなくては。
 大通りにある武器屋に行くとすでにライがいた。短剣を手にして店主に何やら聞いているようだった。店の中には他にも闘牙らしい猫が何匹かいたが、どの猫も皆落ち着きがなくライにちらちらと視線をくれていた。
 それを見てわずかに誇らしい気持ちをコノエは感じた。この美しい猫が自分のつがいであること──幼稚な優越なのはわかっている、けれど、この高潔な横顔が乱れるさまを知っているのは自分だけだと思うと、勝手に浮き立つような気分になる。
 昨夜の生々しい記憶をコノエが反芻していると、「おい」という声とともに頭に軽い衝撃がきた。
 目の前にライが立っていた、その手には鞘に収めた短剣があり、どうやらそれで頭を叩かれたらしい。
「何をぼんやりしている。用がないなら行くぞ」
 そう言ってライは店を出ていき、コノエも慌てて後を追った。
 大通りは藍閃で一番整備の整った場所だ。露天よりも店商いが多く、路面も石を敷き詰めて埃がたたないように設えている。
 二匹で入用の物を探して店を周っていたとき。
 遠くで赤ん坊の泣き声がした。
 ライが耳をぴくりと傾けると、コノエは「ああ、ドーナさんのところの子供だよ。たぶん」と言った。
 にわかに懐かしい気持ちになり、コノエは半年前のことを思い出す。

 大通りの店を束ねる豪商の家で子供が生まれた。主のドーナはすでに壮齢で、新しい命の誕生は、その家にとっても藍閃にとっても嬉しい報せだった。
 本来なら祝い物をもらうのはドーナの家のほうだが、太っ腹なことにドーナのほうが大通り一帯の家に祝い物を配るよう手配した。それを請けおったのがトキノの店だったのだ。
 それはけっこうな数で、トキノとトキノの父だけでは捌ききれなかったのでコノエも手伝いにはいった。廻った家々では、皆我がことのように喜んでいて、コノエも暖かい気持ちになった。
 子供というのは、幸福の塊りなんだ──そう思った。
 全部の品を配り終える頃、陽の月は沈みかけて空は紫と橙色のグラデーションを描いていた。
 トキノと並んでの帰り道、コノエは「子供が生まれるって……すごいことなんだな」とぽつりと言った。
 トキノも笑って「そうだね。もっともっと子供が増えればいいんだけどね」そう返した。
 けれどその言葉はおとぎ話の幸福のような儚さを秘めていた。藍閃にはまだ雌は少なく、子供が増えることはすぐに叶うことではないと二匹ともわかっていたのだ。
 そのとき──夕空に金色の光が流れていくのが見えた。
「コノエ!流れ星だよ!」
 トキノがはしゃいで空を指差し、次いで手を組んで何事か祈り始めた。
「何……?」とコノエが問うと
「流れ星には願いを託すんだよ。コノエも何かお願いしなよ」
 片目でコノエを見ながら口早にそう言うとトキノはまた祈り始めた。コノエも目を閉じ、ついさっきまで思っていたことをそのまま願った。

───もっと、藍閃に雌が増えて、子供がたくさん生まれますように───

 そこまで思い返し、コノエはぞっとなった。散らばっていた欠片が胸のなかで集約する。
 もしかしたら。でも。まさか。
 答えを導き出そうとする心と、それを否定したい心がぐるぐると鬩ぎあった。
 歩を止め立ち尽くすコノエの異変にライが気づき「どうした?」と声をかけてくる。
 その声はコノエの耳に届かなかった。
 頭のなかに直接大きく響く声がそれを遮ったからだ。
「やあっと、辿り着いたか!」
 次の瞬間────
 ごう、という音とともに二匹を風巻が包み込んだ。それは足元を掬うかのように強い風でコノエは身を屈めそれに逆らう。突然の風は突然におさまり、コノエがほっとして目を開けると、視界に信じられないものが飛び込んできた。
 短く刈り込んだ象牙色の髪、金銀妖眼、猫を見下したような笑み。
 二度と会いたくない存在──悪魔。それは快楽を司る悪魔ヴェルグだった。
「よお、久しぶりだな。チビ猫。それと雌になっちまった白猫」
 コノエはしばらく呆然とその姿を見ていたが、ハッとなって辺りを見回した。こんな猫が大勢歩いている場所で悪魔がでてくるのを見られたら……。
 コノエの考えを察したか、ヴェルグはひとさし指を揺らし「大丈夫だよ!俺らの周りに結界張ってあるからよ。他の猫どもにゃあ見えねえようになってるって」そう言って片牙を剥いて笑った。
「それで……貴様は何しにここへ来た」
 ライがコノエの前に立ち、ヴェルグに問う。
「何って悪魔の仕事なんざ、ただひとつだろ。契約のあとの報酬をいただきにだよ」
「契約………?」
 ライの眉が懐疑にしかめられる。
「チビ子は気づいているのに、気づかないふりをするのが得意だからよ。また被害者ヅラするんだろうが……」
 ヴェルグは、頭の後ろで手を組み、軽口を叩くようにそう言って
「わかってんだろ?お前が祇沙一番の魔術師だってこと」
 一転冷ややかな呟きを落とす。
「!」
 その言葉は刃物のようにコノエの胸に突き刺さった。
 「リークスとひとつになったお前は、魔術の知識も魔力も全部引き継いでる。ただそれを使ってないってだけで普通の猫のふりされてても困るんだよな。ええ?祇沙一の高名魔術師さんよ」
 ヴェルグの言葉にコノエは足元から怖気が登ってくるのを感じた。
 受け継いだのはリークスの記憶、リークスの闇。それだけかと思っていた。自分の「願い」が世界に影響及ぼす力があるなど、考えたくもない。……そう、うすうすは気づいていた。でも考えないようにしていただけなのだ。呪術師の言葉がようやく腑に落ちる。
 この事象、「球」のようなものだと。
 コノエはおろかにも自分が発端となった怪を解こうとしていたのだ。
「お前は半年前、俺に願いを託しただろ?気持ちよく空を飛んでいた俺によ」
「……!……」
 あの金色の光……ヴェルグだったのか。
 確かにあのときの願いは本心からだった。心の底から藍閃に雌が増えればと願った。けれど。
「じゃあ……!なんでそのときに出てこなかったんだ!お前が願いを聞くと知ってたら、そんな契約はとりつけなかった!」
「契約は……まだ「成って」ないぜ?」
「え……?」
 コノエの表情から険が落ちる。
「お前の願いは、藍閃に雌が増えて、子供がたくさん生まれるように、までだからな。まだお前の願いは叶えきれていない。いまここでお前が契約を取りつけねえっていうなら、藍閃の雌を雄に戻しておしまいだ」
「………」
 それは願ってもないことだ。それに応じればすべては解決する。しかし悪魔の言葉をたやすく信じていいものだろうか。
「で、コノエが契約に応じた場合、貴様は何を報酬にする?」
 コノエの疑問をライが形にする。
 そうだ……。以前ヴェルグが言っていた。リークスとひとつになった自分は食らえるものではないと。コノエ自身が報酬に値しないというなら、ヴェルグは何で利を得ようというのか。
 少しの間、ヴェルグは腕組みしたまま目を宙に泳がせていた。何事か考えているようで、コノエは内心で身構える。
「んー……頭の悪い猫どもにどう説明していいか……手っ取り早く言やあ、雌の魂だな」
「雌の……魂?」
「雌の魂だと?」
 コノエとライは同じ言葉を問い返す。
「おっと、先に言っとくけどな。魂をとるってのは命をいただくのと同じってわけじゃないんだぜ?魂ってのは「意味」と似ている。生きてても魂のない奴もいるし、命のないものにだって意味をこめりゃ魂が生まれるんだ」
 コノエには、さっぱり意味がわからなかったが、ライは静かに
「言霊や剣魂のようなものか」と言い入れた。
「そうそう!白猫のほうがわかってんな!とにかくだ、『風羽』とやらで雌になっちまった奴は雌の身体に雄の魂がはいってる状態だ。しかし、だ」
 言いながらヴェルグが浮かべた笑みは悪魔にふさわしい酷薄なものだった。
「こないだの発情期で、白猫、お前は雌の悦び、快楽を知っちまったはずだ。お前の身体に雌であることの意味が生まれ、意味はお前のなかに雌の魂を生んだはずだ」
 ヴェルグはひとさし指を中空に突きつけ、くるくると回した。その目はライの腹のあたりを見据えている。
「この発情期で何匹の猫が孕んだか知らねえが、チビ子が契約に応じれば、孕んでる奴だけを残して全員雄に戻してやる。そこで追い出された雌の魂は俺がおいしくいただく。これが報酬だ」
「……子供のできた猫はどうなるんだ……?」
「そいつぁ悪いが一生そのままだ。お前の願いはそこまでフォローしてないからな」
「そんな……!」
 そんな契約にはとても応じられないと思った。
「じゃ、じゃあ!契約に応じないとどうなるんだ!?」
 コノエが詰め寄ると、快楽の悪魔はやれやれという態で肩を竦めた。
「ったく全部説明しねえとわかんねえのかよ。お前が契約に応じなければ、全員雄に戻してやる。ただし!」
ひと息おき
「孕んだ餓鬼も全部潰れちまうがな」
「!」
 言葉は氷の魔法のようにコノエを凍りつかせた。
「俺はな、別にどっちだっていいんだぜ?どっちでも雌の魂は俺のところにはいってくる。まったくおいしい話だ。こんな願いを託してくれて感謝してるぜ。祇沙一の魔術師さん?」
 コノエはいまさらながら悪魔の狡猾さに歯噛みしていた。悪魔は自分だけの意思で猫たちの世界に干渉できない。そのことを以前に呪術師から聞いた。悪魔が己の力を駆使すれば猫の魂を狩りとってまわるなどたやすいことだと。
 けれど悪魔はそれが「できない」。あくまでも猫たちの願いを聞き、その報酬を受け取るという形でしか猫の魂を奪うことはできないのだ。
 だから悪魔は策を弄する。甘い言葉で猫の心を乱し、嘘をつかずとも自分の不利になることは言わない。
 今回の件にしてもそうだ。願いを受けたときに姿を見せれば、コノエはもちろんそんな契約には応じなかった。狡猾な悪魔は姿を見せず、じっと高みからコノエが袋小路にはいるのを待っていたのだ。
「さあ、どうする?選ぶのはお前だぜ?」
 地面に目を当て立ちすくむコノエにヴェルグが囁く。
 契約をすれば、子供ができた猫はもう雄には戻れない。
 契約をしなければ、宿っているかもしれない命を消し潰すことになる。
 雄に戻れなかった猫は、自分の運命をどう思うだろう。こんな自分の知らないところで自分の知らない猫が運命を決めてしまったことを呪わしく思うだろうか。
 宿った命は、自分が生まれる前に消されることをどう思うだろう。
 それを考えるだけの心はまだないのかもしれない。
 けれど自分なら──やはり生きたいと思う。
 飢えても、呪われても、生まれてこないいほうがよかったとはコノエは一度も思ったことがない。
 孕んだ猫かがどれほどいるのか。もしかしたら一匹もいないかもしれない。けれど……もし、ライのなかに子供ができていたしたら……。
 考えているうちに、コノエの額に汗がにじんでいた。考えれば考えるほど迷いが生まれる。
「ったく……早くしろよぉ」
 ヴェルグが苛立ちの混じった声を投げてくる。それがさらに混乱に拍車をかける。
 どうしよう……どうしよう。
 コノエの頭が詮のない言葉で埋まり始めたとき。
「迷うな」
 凛とした声がコノエの耳を打った。
 面をあげると、自分を見つめているライがすぐそこにいた。
 柔和な雌の面立ち、けれどその目はどこまでも清しく、まっすぐだった。
「迷うな。お前の心のままに決めればいい」
 そう言ってライはあたりを見回すように視線を移らせた。
「ただし、一度決めたら後悔はするな。結果がどうなろうと俺は受け入れる。何があろうと……俺は変わりはしないからな」
 コノエもつられて、自分の周りを見回した。自分たちの周りには不可視の結界が張ってあるが、こちらから街の様子を見ることはできた。
 道ゆく猫たち。雌の姿も見える。何がしかの袋を抱えて忙しそうに歩いている。雌であろうと雄であろうと、彼らは生きている。ならば………。
 コノエは目を閉じ、大きく息を吸いこんだ。一拍おいて大きく吐き、そうして唇を動かした。

「契約に……応じる」

「了解───『風羽』終了~~」
 唄うような抑揚をつけて答え、ヴェルグが指を鳴らす。
 とたん、さきほどよりももっと強い風が巻き起こった。
 たなびく外套がまるで帆のようにコノエの身体を引きずろうとする。立っていることもできなくなり、コノエはその場にしゃがんでうずくまった。轟々という音にまぎれて、あたりの猫たちの小さな叫びが聞こえてくる。がしゃん、と何かが叩きつけられる音がした。店先の何かが吹き飛んだのだろうか。
 そうしてどれぐらいの間、風に背中を嬲らせていたのか。
 ゆっくりと辺りが静かになり、外套の裾が泳ぐのをやめた。何かがつま先に当たって、薄目を開けるとどこかから転げてきた木の実が見えた。
 一瞬の静けさのあと、街にざわめきが蘇った。猫たちは口々に、いまの風はなんだったのかと言い合っている。数瞬ののち、歓声とも驚きともつかない声が通りに響きわたった。
「戻ってる……!雄に戻ってる!」
 その声に向かって猫たちが集まる気配がした。ヴェルグはちゃんと契約を果たしたんだと、コノエは安堵した。
 けれどまだ、コノエはうずくまったまま、視線を足元の木の実に当てていた。
 ライは……どうなっているのだろう。それを思うと怖くて、顔をあげることができずにいた。
 地面を踏む音がして、視界にライのつま先がはいった。次いで頭上に
「馬鹿猫」
 その一言が降った。
 その声音に懐かしさを感じた。いつもずっと聞いていた声だった。
 コノエがおずおずと顔をあげると、白銀の髪をした自分のつがいが立っていた。
 しなやかで逞しい体躯。甘さを削いだ精悍な顔立ち。けれどその目は蒼く清しく、さきほど見たものと何も変わるところがなかった。
「ライ……」 
 呟くと同時に複雑な情動がコノエの胸によぎった。 
 安堵もある。嬉しさもある。けれど、ほんの少し残念だと思う気持ちもあった。
 昨夜、ライの体に注いだ自分の精が、実を結んでいなかったことが。
 それは理屈を抜きにした雄の本能なんだろうと思う。
「いったん宿へ戻るぞ」
 コノエの思惑を知ってか知らずか、ライはそっけなくそう言うと踵を返した。
 雌になったときと同じように、戻ったときも感慨なさげに平然としている。
 コノエは呆気にとられていたが、すぐに笑った。まったくなんてライらしいんだろう。
 そして後を追いながらコノエは思った。きっとライは雌のまま戻ることがなくても、いまとまったく同じようにふるまうんだろうなと。

 宿に戻るとバルドも雄に戻っていて、コノエは少しほっとなった。けれどバルドは悔しそうに「ああ、戻るとわかってりゃあ、もう少し愉しんだのになあ」と言う。それが何なのかもまた怖くて聞けなかった。
 そして、その夜は……めちゃくちゃだった。
 ライは意趣返しのつもりか、コノエの体中を舐めまわし、弄りたおした。
 嫌がって身を捩ると、耳を甘噛みされた。
 組み敷かれ、抱きかかえられ、何度も身の内に精を注がれた。
 忘我に落とされ、泣きわめいて、体中軋んで──
 それでも、最後まで嫌だとは思わなかった。

 その後わかったことは、『風羽』を受けたもののうち、雄に戻った猫は半数ほどということだった。
 コノエたちが領主に申し出をしなかったので、結局『風羽』は原因も終わりも謎のままということで片がついた。
 使われなかった多額の報奨金は、子を宿した雌たちの生活費として分けられることになったそうだ。
 ライには迷うなと言われたけれど、正直自分の選択が正しかったのかとコノエは思う。
 そのことについて考えていると、必ずといっていいほどライに見透かされた。
「お前の選択だけが、猫の運命を決めたなど思い上がりもいいところだ」
 あるとき、そうライに言われた。
「生きているものを見くびるな」とも。

 そして冬を越し、春と夏が過ぎ、秋を迎え───
  

 藍閃の街のあちこちで赤ん坊の泣き声が聞こえるようになった。
 市場では子供を背負って買い物をしている雌をよく見かけた。また露天の端に籠を置いて、赤ん坊をあやしながら商いをしている猫もいる。
 街では子育ての寄り合いがいくつも作られ、大勢で寄ってたかって育てているらしい。父猫が誰かということはあまり問題にされてなく、この秋に生まれた子供たちは皆「藍閃の子」と呼ばれていた。 そしてコノエは街を歩くたびに、子供づれの猫を目で追ってしまう。
 母になった雌たちは、不幸そうには見えなかった。笑ってもいるし、元気そうだった。けれど特別幸せそうなわけでもない。
 一言で言えば「逞しい」そんなふうに見えた。
「何を考えている?」
 傍らで市場の品を見ていたライが問うてくる。
 ライは、あのとき「すべてを受けいれる」と言っていた。けれどライが子育てをしている姿など、いまとなってはまったく想像できない。
 戯れに、ライに聞いてみたくなった──
「……あのさ、もしアンタにあのとき子供ができていたら、アンタはどうしてた?」
 唐突な問いかけに、ライは無言で目をしばたかせていたが、苦笑のような吐息をつくと
「剣を教える」
「……それだけ?」
「……森で食える木の実と食えない木の実のことを教える……」
 語尾が終わりを示してなかったので、コノエは黙って聞き続けた。
「星の見かたを教える。毛づくろいのしかたを教える。歌は……お前が教えろ」
 その言葉はコノエを笑ませるのに充分だった。
「ああ……!歌は俺が教える」
 力強くコノエがそう言うと「馬鹿か。たとえ話だろう」と呆れ気味に返された。
 そのとき、市場の猫波のなかをトキノが大荷物を抱えながら横切っていくのが見えた。
 トキノの店も、突然街に赤ん坊が増えて大忙しらしい。
「ライ!俺ちょっとトキノ手伝ってくる!」
 言いながらライに手を振り、コノエは駆けだした。
 
 
 市場には幾多のものが溢れている。
 果実も香花も、笑い声も泣き声も。
 それは世界そのものに似てるとコノエは思う。
 雑多で混沌として、しぶとくて逞しい。

 そして何よりも、祝福に満ちている。

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コメント

「実りの歌」すばらしかったです。
いつもと違う趣にドキドキしました。
ライさんは雌になっても、ライさんですよね。
ライさんが雄に戻って良かったけれど、ちょっと残念なような。2人の子供も見てみたかったです。
ライさんの「歌はお前が教えろ」の言葉。最高でした。久々に楽しいお話をありがとうございました。実りに最高に癒されました。

投稿: りりこ | 2009年1月 7日 (水) 23時41分

超おもしろかったです!地雷なんてとんでもないです。
ライは変わらず雄らしい(男らしい)し、女体化するならやっぱり攻めだな!と思いました。
最初に思ったよりもシリアスにコノエの問題や葛藤を内包していて、そこをライが迷いなく導くという図式がとても「ラメント」らしくて感動しました。
雌化したライはきっと物凄く綺麗なんでしょうね…。ライの美しさに見惚れるコノエがとても可愛くて良かったです。

投稿: Lantern | 2009年1月 8日 (木) 21時50分

最高です!!コノエが雌になるのは何となく次の展開が読めてしまうのですが、ライがまさか雌になるとは…すごい。すごすぎる。続きが気になって、ものすごい勢いで読んでしまいました。非常に萌えました~~!!同じお話を是非ライ視点でお願いしたいです。平気そうな顔してたライの心の内を覗いてみたい…

投稿: モモモ | 2009年3月 2日 (月) 00時10分

感想どうもありがとうございます。
じつは最後の最後まで、ライを妊娠させようか悩んでました。
でもあまりに地雷がすぎるだろうと思ってやめました…。
こういうときゲームだと分岐があっていいですね。

ライ視点のSSはプチオンリーあたりでコピー誌でも出したいなあと企んでおります。

投稿: 後藤羽矢子 | 2009年8月 7日 (金) 22時24分

楽しかったです
そして感動しました
満たされた読後感がありました

投稿: よりしろ | 2011年4月24日 (日) 22時18分

>よりしろ様

ありがとうございます。
自分の中で特に気に入っている話なので嬉しいです。
LamentoSSは近いうちにまた書きたいと思っています。

投稿: 後藤羽矢子 | 2011年4月25日 (月) 11時28分

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