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2008年6月11日 (水)

キャンディートイ

 降りしきる雨が、辺りを鈍色に塗り替えている。

 目に映るのは、瓦礫の山、枯れ果てた大木、そして地面に臥す、数分前まで人だった塊が数体。それが地面に垂れ流す血さえも、雨にかき混ぜられて汚泥のように黒々として見えた。
 まるで世界の終わりのようだと、アキラは思った。確かに、もう終わりなのかもしれない。自分の目の前に立つ黒衣の男、鎌の代わりに日本刀を携えた死神が、高らかに世界の死を謳いあげているのだから。
「もはや……怖れるものは何もない。俺は、俺の弱さを超えた。永遠の力を手に入れた。すべて捻じ伏せてやる。この力で狂わせてやる……!」
 色を失った世界のなかで、そう囁く男の目だけが赤々とした光を放っていた。アキラの体は歯の根が合わなくなるほど震え、腹の底から冷えるような恐怖を感じている。なのに自分の目を男のそれから逸らすことができなかった。男が笑いながらアキラの頤を捉え、顔を近づける。アキラを見据える視線は狂気に研ぎ澄まされていて、まるで眼球に針を刺され脳髄まで貫かれるような気色になった。
「いやだ……放せ!」
 アキラの口から悲鳴のような声がでる。いままでも、トシマに来てからも、人の死を目の当たりにしても、こんな声が出たことはなかった。死は怖くない。だからシキに殺されることを怖れているのではない。自分は何を恐れ、何から逃げたいと思っているのだろう。
 しかし答えを考える前に、シキの拳がアキラのみぞおちに食い込み、アキラの意識は暗転した。心が沈むのをどこか遠くに感じながら、このまま二度と目覚めなくてもいいと思った。自分の知っていた世界は終わる。この男──シキが変えてしまう。
 その先に何があるのか──そんなものは知りたくなかった。

 目覚めたとき、言葉どおり世界は変わっていた。

 最初に目にとびこんできたのは、花だった。
 白い花、花の名など興味のないアキラでもそれが百合だということはわかる。視線を少し上向けると、ヘッドボードに大きな花台が置いてあり、そこから百合の束が八方に首をもたげている。
 そこでアキラは、やっと自分がベッドに寝かされていることに気づいた。そしてその広いベッドが、体をくるんでいる柔らかな寝具が、自分の知るものとはかけ離れた上等なものであることも。
 はねるように上体を起こして辺りを見回した。
 広く、瀟洒な部屋だった。アルビトロの城のような華美すぎる装飾はいっさいない。しかし、壁面を逆さに映すほど磨きこまれた大理石の床、花のモチーフが彫りこまれた格天井、それらは平明だが贅沢な造りで、一級の品格を感じさせた。
 自分の最後の記憶とあまりにかけ離れたその場所は、アキラをひどく戸惑わせた。ここはどこなんだ?あれからどれほどの時間が経った?シキは──?
 わきあがる疑問に急かされて、アキラはベッドから降りて床に足をつけた。
 驚愕に全身が凍りつく。
 アキラは、大きめのシャツ一枚しか身につけていなかった。それはいいのだが、そこから伸びでた自分の脚に目を疑った。それは白く細く、まるで少女の脚のようだった。
 うろたえながら、自分の体をかき抱くように触る。元から逞しい体ではなかったが、いま、シャツの布地ごしに触れる腕の細さ、胸の薄さは別人のそれとしか思えなかった。
 吐き気にも似た動悸がする──意識を失ってから目覚めるまで、感覚的には半日も経っていないような気がするが、実際はそんなものではないとこの体が知らしめている。
 とにかく誰か人に会いたい。いまの状況を把握したい。アキラはベッドからシーツを剥がし、それを力まかせに引き裂いて腰に巻きつけた。なにか武器になるものはないかと部屋に目を走らせてみたが、広い部屋のわりに家具はベッドと長椅子しかなく、諦めるしかなかった。
 重い観音開きの扉を押す。扉の向こうはやはり大理石の、長々と続く廊下だった。飾り格子の窓からうっすらと陽が差し込んでいる。歩み寄り、窓から外を伺い見る。眼下には庭園があった。青い芝生の上に十字型の大きな花壇があり、名前の知らない白い花が咲き乱れていた。美しいはずなのに、アキラはその光景に不気味なものを感じた。人ひとりいないせいだろうか。そこに生の匂いはなく、白い花々はまるで墓標のように見えた。
「アキラ様──」
 突然背後から名前を呼ばれて、心臓が跳ねあがった。
 振り返ると、大柄な男が立っていた。軍服のようなものを身に纏っているが、日興連のものでもCFCのものでもない。
「困ります。勝手に出歩かれては。シキ様に咎を受けるのは我々なんですから」
 いきなりシキの名前を聞かされて、アキラの体が竦む。やはりここはシキの手のなかなのだ。そして意識を失う前に感じたシキへの恐怖がまた鮮やかに蘇り、アキラは我知らず後ずさる。いまの状況を把握したいという目的も忘れ、ただ恐怖から逃れたいという本能につき動かされ、じりじりと男との距離をあける。しかし踵を返そうとした瞬間、男の無骨な手に肩をつかまれた。
「やめろ……っ!はな、せっ…」
 渾身の力をこめて、男の手をふりほどこうとするが、この細い体は悲しいほど非力だった。男はもがくアキラを抱きこむ形で縛める。揉みあっているうちにアキラが腰に巻きつけていた布が落ち、シャツがはだけ、胸から下肢までが男の目の前に曝け出された。
「………!」
 男の目の色が変わった。喉仏が上下に動き、震える声がアキラの名を呼んだ。
 惑いが一瞬の隙を生み、気がついたときにはアキラの体は男の下になって廊下の冷たい床に押し倒されていた。
「や……、やめろ!嫌だ!」
 アキラの両の肩は、男の手に堅く押さえつけられている。縛められているという状況はほんの数瞬前と同じだったが、込められた意味は先刻までとはまるで違っていた。荒い息を吹きかけながら、男がアキラに頬ずりをする。鳥肌がたった。
 詮無いことと思いながらも、他人のもののように見える細い腕で懸命に男を押し返す。そんな哀れなアキラの抵抗を男は捕食者の目で嘲笑った。
 しかし。次の瞬間──
 男の表情から色が抜ける。あらぬほうへ視線を向け、口を半開きにし、惑いを浮かべたままの顔で男は硬直した。
「……?」
 訝しさにアキラは男を見つめる。男は硬直したまま、やがて唇だけをわずかに震わせ、その端から一筋の血を垂れ流した。
 息を呑む。何が起こったのかとアキラが考えを巡らせる前に、男の体がゆらりと傾ぎ、廊下の床に横倒しになった。
 そして開けた視界に、血塗れた刀の切っ先が閃き、さらにその先に──
「シキ……!」
 黒い服、黒い髪、赤い瞳と邪悪な微笑み。あれほど恐怖を感じていたにも関わらず、最後の記憶とほとんど変わらないシキの姿に心がたわんだ。
「こんなところで痴れ事に興じるとは……少々の仕置きでは物足りなくなったか?」
 そう言うとシキは男の体を蹴り飛ばして退かし、アキラの前に跪いた。そっと、その手がアキラの頬に触れる。その感触に懐かしさを感じてしまう自分は、どうかしているのかもしれない。
「シキ…ここは…どこなんだ?」
 戸惑いと疑問で惑乱する頭をどうにか落ち着かせ、アキラはやっと知りたいことのひとつを吐き出した。シキの眉がぴくりと動いたのを見たが、かまわず言葉を継ぐ。
「トシマは…どうなったんだ?あれから、どれくらいの時間が経った?俺はどれぐらいここで眠ってたんだ?」
「……」
 シキは無言でアキラをしげしげと見つめていた。アキラも答えを待ってシキを見つめ返す。いま、シキに対してさほど恐怖を感じていないのは、その目に狂気の光が宿っていないからだろう。少なくとも目の前のシキは、ナノの血を取り込む前の姿と変わらないように見えた。
 シキが唇の端を吊りあげ、く、と小さな笑声を漏らした。 
「面白いな……。本当にお前は俺を飽きさせない。いい目だな。その目を見るのは、久しぶりだ」
 言うなり、シキはアキラの体を軽々と抱きあげ、歩き始めた。自分の体が冷えきっているせいか、シキの腕はいつになく温かい。認めたくはなかったが、その温もりはアキラの心を解きほぐし穏やかにさせていた。
 少なくとも、ここは、死の世界じゃない──
 それだけのことにアキラはひっそりと安心する。

 元いた部屋に戻され、アキラはベッドの上に投げ出された。シキは枕元に腰かけると、「目覚める前、最後に覚えていたことを話してみろ」と言った。
 記憶は未だ鮮明だったが、それを言葉にするのは気が重かった。あの出来事を夢だということにできれば、どんなにいいだろう。しかしシキの赤い眼はそれを許してくれそうもない。
 しかたなく、ぽつぽつと少しづつ、記憶を言葉に変換する。
 シキがナノの血を取り込んだこと。
 シキが、自分自身の力でニコルに打ち勝ったこと。
 ……シキがシキでなくなってしまったこと。
「それで……アンタに腹を殴られて、目の前が真っ暗になった。俺が覚えているのは、ここまでだ」
 言い終えて、アキラは溜め息を吐いた。横目でシキを伺うと、頤に手をやり、何事か考えているようだったが、アキラの視線に気がつくと、目を伏せて薄く笑った。
「壊れたか…戻ったか…どちらなんだろうな」
「え……?」
「アキラ。お前が話した最後の記憶から、いまは三年経っている」
「さ……!」
 息を呑む。自分の体の変容からある程度の時間が経っているのは覚悟していたが、それがまさか三年だとは。
 目を見開いたまま、二の句が継げないでいるアキラに、シキはさらなる冷水を浴びせる。
「もう、わかっていると思うが、お前は三年間眠り続けていたわけではない。おそらく記憶障害というやつだ。三年前のお前の記憶のデータが突然ロードされた。そういうことだろう」
 にわかには信じられないことだった。自分の知らない自分が、三年もの時間をシキと過ごしているなどと。緩いシャツの袖から覗く、自分の痩せた手首を見る。ここに到るまでのことを想像するとそら恐ろしくなる。
 そんなアキラの思惑を、シキはやすやすと悟ったらしい。
「知りたいか……?三年の間に、お前に、世界に、何が起こったのか…」
 いっそ優しいとも思える呟きをアキラの耳に吹き込み、シキはその手でアキラの髪を撫でた。鼻を掠める百合の香り。べつの意味でアキラの背筋が寒くなる。自分の知っているシキは、こんな甘やかな所作をしない。
「やめろよ……!」
 身を捩ってその手から逃れる。尻をずらせてシキから離れようとしたが、その前に腕をとられ、寝具の上に体を倒されてしまった。頭半分埋まるようなそれの柔らかさに、すぐに起きあがることができない。数瞬身じろぐ間に、シキはアキラの体にのしかかり、噛みつくようにくちづけてきた。
「ん……っ…う…」
 シキの舌がアキラの唇を割って押しいってくる。電流に触れるような刺激を感じた。驚きに、シキの肩に爪をたてて抵抗するが、それは蟷螂の斧にも等しい。シキの舌はアキラの舌を撫で、上顎をくすぐり、だんだんとアキラの体の強張りを解いていく。
 シキがゆっくりと唇を離す。咥内から去ろうとするシキの舌を追って、アキラも薄く開けた唇から舌をだす。唾液が細い糸を引いた。
 こんなくちづけは、されたことがなかった。互いの粘膜を絡ませあうそれは、頭の芯がジンと痺れるような快感をもたらせる。アキラは余韻に瞼を落としかけていたが、シキの手が下肢に触れたとたん、ビクリと身を竦ませた。
「やめろ……よ!」
 身体を捩ってその手から逃れようとするが、すでに半裸に近いその格好ではたいした抵抗にはならなかった。シキの指先はアキラの肉茎を捉え、捏ねるようにリズミカルに扱き始めた。
「やっ……嫌だ……」
柔らかな寝具に顔を埋め、アキラは呻いた。立て続けに突きつけられた現実に心が追いついていなかった。そんな状態でシキに抱かれたら、いま、たったひとつ残された自我までもが瓦解してしまいそうな気がした。
 しかしシキは、そんなアキラの耳元に唇を寄せ、笑い交じりの吐息を吹き込んだ。
「なにをいまさら……これまでに男を何十人も咥えこんできたお前が」
 残酷な真実を優しい声音に乗せて、シキはアキラの心を抉った。
「な……!」
 反射的にシキを仰ぎ見る。黒髪の隙間から覗く赤い眼とかち合った。
「確かに……あのときのお前が、ああまで貪欲で淫奔になるとは思わなかったがな。俺の目を盗んでは誰彼かまわず閨に誘い、男の白い血にまみれて悦んでいる──それが、いま、ここにいるお前だ」
「……嘘、だ……!」
「ならば、確かめてみろ。自分の体で」
 言いながら、シキはアキラの雄の部分へ再び愛撫を加え始める。幹のくびれの部分を二本の指ではさみ、擦りたてた。アキラの噛みしめた唇から、くぐもった呻きが漏れた。
 先端から滲む粘りを塗りひろげて、シキは執拗にアキラの欲望を煽りたてる。やがてアキラの肉茎は血管を浮かせて屹立し、すぐには戻らないほどの熱を集めていた。そしてその頃には、アキラはすっかり抵抗することを忘れ、荒い息を継ぐことしかできなくなっていた。
 ふいに肩をつかまれ、体の向きを変えさせられ、うつぶせになった腰を抱えあげられる。尻の肉を割られ臀孔を剥き出しにされた。何度抱かれても慣れない羞恥にアキラは唇を噛んだ。
「う、…ん…っ、く」
 アキラの幹の先から滴るものを掬い、シキはその指でアキラの臀孔を捏ね回した。指が侵入する痛みを予感して、アキラは体を硬くしたが、指は入り口に粘りを塗りこめるばかりでそれ以上のことはしてこなかった。
 シキの指が離れる。次にやってくるものをアキラは知っている。しかしいまの状態で、とてもそれを受け入れられると思えない。
 けれど「それ」はアキラの孔にあてがわれた。驚きと不安に体が竦む。
「ほら……味わえ」
 シキの熱っぽい囁きが頭上に降った。アキラが大きく息を吐くと、先端がわずかにめり込んだ。次にやってくる痛み──体が覚えている感覚を反芻してアキラは固く目を閉じた。
 しかし──体はアキラを裏切った。 
 シキがゆっくりと腰をいれる。それに合わせてシキの熱がアキラの潤んだ孔に食い込んでいく。さしたる痛みもなく、一番太く張り出た部分が呑みこまれた。
「あ──あ──あ、……あっ!」
 信じられない思いに声が震えた。そうしている間にも、熱い塊はさらにアキラの内壁を擦って押し入ってくる。背筋をぞくぞくと這いあがるもの。……それはまぎれもない快感だった。
 身を硬くして細波のようなそれに抗う。しかしそうすれば余計に身のうちのシキの質量を感じてしまう。噛み締めた唇の隙間から、篭った吐息が漏れた。
「どうだ……?いい体だろう?」
 囁きながら、シキは自身を根元までアキラの中に埋め込んだ。しあげとばかりに腰を捏ねるように擦りつける。
「っ……く、ふ…っ」
 シーツに顔を埋めて声を殺し、アキラは必死に首を横に振った。シキは呆れたように鼻で笑うと、アキラの腰骨を両手で掴み、ゆったりと抜き差しを始めた。
「あっ…ひ、っ……」
 腹の奥をくすぐられるような、なんともいえない感覚に苛まれる。閉じた目の闇からチラチラとした光が舞う。抗っているつもりが、気がつけば必死でその感覚を追っている自分がいる。額に浮いた汗に前髪がはりつく感触にさえ心地よさを感じた。
 ふいに穿つ角度を変えて、シキの肉がアキラの中の核を突く。目の中で火花が散るような刺激に、声が裏返った。
 その感覚は知っていた。そこを何度か突かれれば、気をやってしまうことも。そしてそれに抗えたためしがないことも。ここまできて、戻ることなどできやしない──アキラは体の力を抜き、諦念を含んだため息を吐いた。
 しかし、次は──そして次も。アキラを穿つシキの肉茎は、快楽のしこりをたくみに避けていた。もどかしさに焦れる。「そこ」を擦りたてて早く楽にして欲しい──アキラの意識はだんだんとそれだけしか考えられなくなっていく──
「はっ…あ、……あ、あっ……」
 犬のように短く荒い息を継いで、アキラは自分で腰を揺らし始めた。シキの硬い肉をここに当ててとねだるように。
 シキが笑った──ような気がした。シキはアキラの腰骨を掴んでいた手を胸元まで滑らせると、尖りきった乳首を爪で弾いた。
「ひあ……っ」
 その部分までもが、自分の知っている体ではなくなっていた。いままでも、触れられればそれなりの快感は得ていたが、いまはそんなものではない。まるで性器のようだ。そんなアキラの戸惑いを面白がるようにシキはそこを丹念に指で捏ね回す。そのたびにシキを咥えこんだ部分がひくひくと収縮した。
「ああ……あぁ、あ……ああ」
 だだ漏れになる呆けた声。薄く開いた唇から唾液が垂れた。シキは上体をアキラの背に寄せ、うなじにくちづけると「いいか……?」と毒のような甘さで囁いた。
 肯定も否定も、応えることはできなかった。啼きながらアキラは淫売の態で腰を振った。背中を這うシキの唇、乳首をさするシキの指、シキの触れる感覚を追うことだけしか、アキラにはできなくなっていた。
「んっ…く、はぁっ、あ……んっ…うっうう」
 近づく高みに、体の内が引きしぼられる。耳元にかかるシキの息も荒くなっていた。気持ちいい──もっと欲しい──もっと…もっと……シキ……頭のなかで「誰か」の声がした。
「あっ…!く、あっう、あああああっ!」
 体が反り返り、アキラは熱い白い凝りを吐き出した。それはべつの生き物のようにびくびくと震え、はしたなくシーツに穢れを撒き散らした。
 シキがアキラの肩を噛み、体を強張らせる。くっと息をつめる気配とともに、シキの肉がアキラのなかで脈をうつのを感じた。
 シキもアキラのなかで達したようだ。擦られた粘膜に熱い精液が沁みた。
 余韻に震えるアキラの唇に、シキのそれが触れた。触れ合ったままシキがうっそりと囁く。
「器が変われば、味わいも違ってくるだろう?お前も…もっと愉しむがいい。その淫蕩な器を俺が存分に満たしてやる」
 言葉は、いま体に放たれたもののように、どろどろと熱くアキラのなかに染みていった。
 
 
 
 壁一面が明り取りになっている食堂の窓から、柔らかい朝の陽が差し込んでいる。広いテーブルには、温かいスープ、焼きたてのパン、アキラが名前も知らない料理の数々、しかし席についているのは、シキと自分だけしかいない。
 食欲はあまりなかったが、アキラはスープを啜り、パンを齧った。とにかくこの痩せた体に少しでも肉をつけたい。
 シキに打ちのめされても、アキラの心は折れていなかった。確かに自分が途方もなく変わってしまったことは理解したが、それでも、いまの自分がこの世界で目を覚ましたことになんらかの意味があるとアキラは思った。
 運命は、巻き戻せる──そんなことを考える。
 このまま唯々諾々とシキの手中におさまるわけにはいかなかった。とにかく抗わなくては。
 黙々と咀嚼を続けるアキラが、ふと視線を感じて顔を上向けると、シキが頬杖をつきながら面白いものを眺めるようにアキラを見つめていた。
「……何だよ」
「あれは、食べないのか?」
 シキが顎で指し示したのは、銀器に盛られた果物だった。大きい果実は丁寧に飾り切りされ、小ぶりな果実は行儀よく並べられている。
「お前は食は細かったが、果物だけはよく食べた。特にこれを好んでいた」
 シキはそう言って皿の上の真っ赤な苺を一粒をつまみあげた。
「べつに……「いまの」俺はそうじゃない」
 苺も他の食べ物と同様、特に好きでも嫌いでもなかった。出されれば食べるが自分から進んで食べた記憶はない。
「そうか。せっかく用意させたのにな」
 シキは、そう言うとつまんだ苺を口に運んだ。そしてやおら立ちあがると、アキラの傍らに歩みより、髪をわしづかみにして顔を仰向けさせた。
 抗議の声は、シキの唇に塞がれた。
 アキラは身を硬くした。食事をしているのは、自分とシキだけだったが、背後には何人もの給仕が控えているのだ。しかしシキは彼らを空気と思っているのか、おかまいなしに舌でアキラの唇を割る。舌と一緒に噛み潰した果肉が滑り込んでくる。
「う……っん」
 甘酸っぱさが口にひろがった。……確かに悪くない味だと思った。果肉を嚥下して残り香を味わうように自分の舌をシキのそれに絡ませた。
 唇が離れて、唾液が糸を引いた。果肉に色づけされた赤い唾液がシキの唇を染めている。それを艶めかしいと思う気持ちを抑えてアキラはシキを睨みつけた。
「……わかった。全部食べるから…やめろよ。そういうこと」
 言いながら横目でちらりと給仕たちのほうを見る。
 彼らは、表情ひとつ変えずに、人形のように居並んでいた。

 午後からは、シキが街の視察にでるという。「ついてくるか?世界の様子が知りたいだろう」と言うシキの言葉に従って、アキラは厳めしい黒塗りの車に乗り込み、シキの隣に腰掛けた。
 考えてみれば、アキラはいま自分がいる場所のことも知らなかったのだ。城の敷地内をでて、フロントガラスから見る街は意外なほど美しく整備されていた。こんな街は見たことがない。少なくとも自分の生まれ育った街ではない。
「ここはどこなんだ…?」
 窓の外を流れる街の景色を追いながら、アキラが訊ねるとシキはなんでもないことのように「トシマだ」と返した。
「トシマ……?」
 冗談だろうと思った。あの廃墟のような街が三年でここまで変わるはずがない。
「トシマはいまやニホンの中心部だ。俺の城下でもある。ニコルの研究所も作らせた。俺の手の内ですべてが円滑に動くように」
 言われて、改めて街を見やり、あることに気がついた。
 街を歩いている人影がほとんど見えないことに。
 そこだけは、以前のトシマと同じだった。城の庭園と同じに、美しいがうすら寒い光景だった。
 ふいに車が停まった。「楽園はここまでだ」というシキの呟きに促されて、窓の外を見ると高いコンクリートの壁を穿つような大きなゲートがあった。金属の扉に閉ざされたそれは、まさに城門と呼ぶのにふさわしいほどの威圧感だった。
 シキが車を降りる。アキラもそれに続いた。
 シキが携帯電話で、なにごとかを指示すると、少しの間をおいて扉がゆっくりと開きだした。
「あ……」
 扉の向こう、目の前にひろがる光景にアキラは息を呑んだ。いっそ懐かしいとすら感じる荒れ果てた街並み。淀んだ空気を掃うようにふたりの間を風が吹き抜ける。
「トシマにはいれるのは、それなりの能力をもった者だけだ。力でも頭脳でも、容色でもいい……。トシマでなら人間らしい生活が保障される。トシマにはいれない者たちは、こうして壁の外、搾取されるだけの存在だ」
 世界が反転したかのような錯覚に、アキラはわずかな眩暈を感じた。たった一人でそこまで世界を塗り替えた男の力の強大さに恐怖も感じる。しかし。
「そんなことやってて……アンタ、命を狙われたりしないのか?」
 何故こんな言葉が口をついてでるのだろう。
「狙われないとでも思っているのか?」
 そう言ってシキは笑った。
「こんな政で怨みを買わないと思っている奴がいたら、それは気狂いだろうな。……歴史の上ではそんな輩も大勢いたらしいが」
 言葉のわりに、シキは身の安全にはひどく無防備のようにアキラには見えた。
 いまのシキの立場の者が、SPもつけずに外を出歩くなどありえるだろうか。シキを見つめるアキラの目には、その意がこもっていたらしい。シキがアキラの視線に気づき、また小さく笑う。しかしその目には剣呑な光が宿っていた。
「そのほうが面白いだろう?雑魚が束になって、小細工を弄して、ようやく少しは退屈しのぎになる。同じ虫けらを掃うのでも憎しみを湛えた者のほうが、斬りがいがある」
 また一陣の風が吹き、シキのコートを翻した。黒くたなびくそれは魔物の羽のようだとアキラは思った。やはりシキもシキではない。以前のシキにとっても他者の命は軽いものだったが、いまはそれ以上に命を弄ぶことを喜んでいる。子供じみた狂気。シキは世界を玩具にしている。自分もそのうちのひとつなのだと思うと背筋が寒くなった。
 逃れなくては……逃れなくては。
 シキに肩を抱かれて、くちづけを受ける。甘さにさらわれそうになる意識を、そう呟くことで必死にとどめ続けた。
 

 シキの熱は遅効性の毒のようだと思う。
 
 日中、シキは城を空けていることが多い。その間、アキラはひとり部屋に残される。部屋に鍵はかけていなかったが、外に出る気にはなれなかった。
 食事や風呂の、ほんのわずかな移動の間も、城のあちこちに見張りの気配があった。彼らがどこまでシキに対して忠義を尽くしているかはしれないが、少なくともアキラの安全と窮屈は保障されているようだ。
 それでも──どこかに必ず綻びがあるはずだ。
 それを信じてアキラは時を待つ。細く萎えきった足に少しでも筋力を戻そうとして、広い部屋をぐるぐると歩き回った。
 シキから逃げたい。逃げた先のことなどは考えていない。ただ、いま、このまま、シキの傍にいて、シキに抱かれ続けていれば、また自分は同じ運命を辿るだけだと思う。
 トシマの廃アパートで、何回もシキに抱かれた。しかしそのときは、まだふたりの間に薄氷一枚はさんだような距離があった。 それを取りはらったいまのシキは、氷と炎、相反するものを同時に抱え込む魔物のようだ。同じ空気を吸っているだけで胸苦しくなる。まして抱かれたあとは、低音火傷のように触れられた部分がいつまでもじくじくと熱を持った。
 このままでは、自分は飴玉のようにシキに舐めつくされて溶けて消えてしまうだろう。その先に何があるのか。もしかしたら、それが記憶障害を起こす前の自分だったのかもしれないが。自分の知らない自分が何を思いそうなっていったのか……考えたくなかった。

 そして夜がくれば、またアキラの正気は毟り取られる。
 シキに抱きすくめられ、くちづけを受け、身じろいで抗うのはほんの一時だけ。
 与えられた快楽の記憶はやすやすとアキラの意志を裏切る。鎖骨を軽く噛まれただけで甘い吐息を漏らしてしまう。
 命じられるままにシキの肉茎を舐めしゃぶり、たっぷり濡らした屹立をシキに跨り咥えこんだ。痴呆のような声で喘ぎ、アキラは泣いた。
 昼の間に気丈に固めた決意を、夜になると壊される。
 積み木を積んだはしから崩されるのに似ていた。積んでは崩し、積んでは崩しを繰り返す。そんな拷問があるとどこかで聞いたと、体を揺すり、霞む頭でアキラはぼんやりと考えていた。

 
 花台の花が百合から名も知らない花に、何度か差し替えられた。
 この部屋にきて、どれだけの時が経ったのか。すでにアキラの記憶は曖昧となっていた。
 ベッドに横たわって、自分の腕を見る。陽の光に淡く照らされたそれは、以前から比べると随分と肉づきがよくなったと思う。食事は意地で摂っていたし、ひそかな運動も続けていた。ただそれも無心でできるからやっているまでで、シキから逃れたいという強い希求はじわじわと形を失いつつあった。
 気が緩むと、シキのことばかりを考えている。自分の肌を滑るシキの唇。シキの白い肌、温まった肌から立ちのぼるシキの匂い。アキラはベッドの上で寝返りをうって熱の篭った息を吐いた。熱い。体も頭のなかも。けれどシキに抱かれればそれは解消されることなく、さらなる熱を呼び起こす。冷める暇がない。
 アキラは気だるげに体を起こすと、部屋の扉を開けて浴室へと向かった。冷たい水でも浴びれば少しはなんとかなるだろうか。

 冷たい大理石の廊下の上をぺたぺたと歩く。
 すぐに従者がやってきて用聞きをされる。「シャワーだ」と短く告げると、「すぐに着替えをお持ちします」と一礼して踵を返して行った。
 広い浴室にはいり、冷たい飛沫に頭を打たせた。初めてシキに犯されたのも浴室でだったとふと思い出す。あの日以来──いつでもシキの存在が体にまとわりついている。それ以前の自分が思い出せないほどに。アキラは唇を噛んで、冷水に体を打たせながら浴室の床にしゃがみこんだ。
「アキラ様!どうしましたか?」
 背後から声がした。振り返ると浴室のドアから従者の男が不安げに顔を覗かせていた。ドアを開けっ放しではいっていたらしい。
「べつに……なんでもない」
「お体の具合でも悪いのですか?」
「いや、大丈夫だ」
「そうですか……」
 安心したかのような従者の声。同時に舐めるような視線がアキラの肌に絡んできた。以前にも感じた、腹を減らした獣が餌を目の前にしたときのような。
 肌が粟立つような怖気を感じた。しかし意外にもそれは、アキラののぼせた頭に氷のような覚醒をもたらせた。水でも冷ますことのできない熱が一瞬、すっと引いた。
「あ……」
 惑いの視線を男に向けた。男はその視線にべつの意味を見出したのか、顔をこわばらせ、しかしおそるおそるの態でアキラに近づいてくる。
「ア……アキラ様…」
 男が手をのばし、欲望をまだ気遣いのオブラートにくるんでアキラの頬に触れる。ぞっとなった。しかしその感触は悪くない。皮膚の下から冷えるようなそれは、清涼にも似た感覚だった。もちろん、それがまやかしであることもわかっていた。
 けれど。
 もっと……覚ませてほしい。心も体も。
 アキラは差し伸べるように男へと手をのばした。
 男に懇願のまなざしを向けた。
 それだけで、男は自分の意のままに動いてくれた──
 
 アキラは濡れた床に手をついて、獣の格好で男に貫かれていた。
 頭のなかは覚めきって、男の所作のすべてを冷静に受け止めていた。這いまわる節くれだった指。荒い息。自分を穿つたびに尻にあたる、男の体毛に覆われた太腿。すべてが気色悪く心地いい。
 これでいい……これで、俺は正気に戻れる。
 濡れた髪を振り乱してアキラは思う。このことはすぐにシキに知れるだろう。そして男はシキに斬られるだろう。そのことに対して欠片も胸は痛まなかった。それがすでに正気の沙汰ではないことに、アキラは最後まで気がつかなかった。

「何か言うことはあるか?」
 アキラの目の前に血塗れた刃先。自分の前に立つシキの足の間から、倒れている男の姿が見える。大理石の床にひろがっていく血。予想と一分も違わぬ光景がアキラの前にひろがっていた。
「何もない」
 アキラがそう言うとシキは、刀を返し、みねの部分でアキラの顎を持ちあげた。
 意外にもシキの目に怒りの火はなく、児戯を楽しんでいるような邪気のない光があった。
「そうか。しかし……面白いものだな」
そう言って唇の端を吊りあげる。
「お前はなんだ?記憶を再生するだけのレコーダーか?あれほど否定しておいて結局はまた男をかどわかす。それとも淫売の器に魂までもが染まったか?」
 わからない。しかしシキの言うことはそのどれもが当たっているような気もする。
 いまの自分は本来は無いものなのだ。三年の時を経た末の自分は別にいる。自分は、その自分とまた同じ道を辿ろうとしているのか。運命に抗おうとしても無駄なのか。……もしかしたら本来の自分も、そうやって抗おうとしていたのかもしれない。そう思いながらも、じわじわとシキに正気を舐めとられていったのかもしれない。
「シキ……俺を殺してくれないか」
 思わず呟いていた。もう考えることも大儀だ。目を閉じると胸板にいきなり衝撃がきてアキラは床に倒れこんだ。シキが刀の柄でアキラの胸を思い切り突いたらしい。
 痛みに咳き込んでいると、シキの冷ややかな声が降った。
「腑抜けが。そんな逃げが許されるとでも思っているのか」
 シキはうずくまるアキラの背を容赦なく蹴り飛ばした。
「お…、あっ!」
喉を潰すような悲鳴をあげるアキラを、シキはつまらなそうに見下ろしていたが、やがて踵を返すと無言で部屋を出て行った。
 アキラは起きあがることもせず、冷たい床に頬をつけていた。しばらくすると、また足音が近づいてきて、アキラの目の先に見覚えのあるものが放り出された。
 茶色の革のナイフホルダー。ゆるゆると身を起こし、アキラはそれを手にとった。ホルダーから引き抜いたナイフは、刀身に読めない文字が彫りこまれている。間違いなく、かつて自分が振るっていたものだった。
「これは……」
 意図を図りかねて、アキラは顔を上向ける。アキラを見下ろすシキの表情は色がなく、冷ややかなようにも穏やかなようにも見えた。
「……このナイフで、お前はお前の運命を決めろ。自分で死を選ぶのも、俺を殺すのも、それを武器に、城から逃げ出すのも。好きにしたらいい」
「………」
 意外すぎるシキの言葉に、アキラは返答することができなかった。それを待つことなくシキが言葉を続ける。
「今晩は、お前を一人にしてやろう。その間にゆっくり考えろ」
 そう言うと今度こそ本当にシキは部屋を出ていった。しばらくしてはいってきたのは、数人の従者で、働き蟻のようにてきぱきと仲間の死体を片付けるさまを、アキラはぼんやりと眺めていた。
 

 ベッドの上でアキラはナイフをホルダーから抜いては収めるを繰り返していた。
 窓から差し込む月の光が、切っ先を光らせる。
 これは、おそらくシキが与えてくれる最後の選択肢だろう。選んだらもう後戻りはできない。
 もう一度、「本来の自分」に思いを馳せた。本来、ここに在るはずの自分。彼は三年間、何を思ってシキと過ごしていたのだろう。そしてシキは、そんな自分をどう思っていたのだろう。
 ぐるぐるとまとまらない考えを巡らせているうちに、アキラはいつの間にか眠ってしまっていた。浅い眠りのなか、とりとめのない夢を二度三度みて、何かが爆ぜる音で目を覚ました。
 意識が戻ると同時にきなくさい匂いが鼻をついた。体を起こすと扉の外が騒がしい。何かが城に起こっている。
 扉を開けると、いきなり目の前の廊下に、侍女が倒れていた。服が赤黒く染まって、もう事切れているようだった。
 死体に数瞬、目を奪われていた。人の気配に気づいて顔をあげると、血走った目をした兵士が間近に来ていて、自分に向かって大振りのナイフを振りおろしていた。飛びすさってそれをよけたが、刃先は肩をかすめ、シャツを赤く滲ませた。かまわずベッドまで転がるように後退する。追い詰めたとばかりに兵士が口が裂けるような笑みを浮かべ、ナイフを振り上げる。
 アキラは後ろ手に掴んでいた枕をナイフの軌跡にぶつけるように投げつけた。裂かれた布から羽毛が綿毛のように散る。
「おっ……」
 視界を遮られ、兵士がわずかに怯んだほんの一瞬に、アキラは男の懐に飛び込み、その腹に深々とナイフを突きたてていた。
まだ──駄目だ。アキラは渾身の力を込めて、突きたてたナイフを横薙ぎにした。濁った音とともに腹から水風船が弾けるように血が噴出し、アキラの体に降りかかった。兵士の巨躯がずるりと床に沈んだ。
 アキラは荒い息をつきながら、兵士の死体を見た。城の衛兵と同じもの──これは内乱と思っていいのだろうか。
「シキ──」
 我知らず呟いていた。
 何故、シキと離れている今日に限って──鼓動が胸をせわしなく叩いて吐き気をもたらせる。
 それに急かされるように、アキラは再び廊下にでた。どこかが燃えているらしくすでに空気は白く霞んでいたが、かまわず走り出した。
 走りながら、アキラは肩から流れる血をナイフの刃に塗りつけた。城の兵士はほぼ全員ニコルのキャリアーなので、自分のナルニコルの血は武器になるはずだ。思ったとおり、廊下の角、出会い頭に襲ってきた兵士を、腕を斬りつけただけで絶命させることができた。
 そうしてアキラは突き進む。対の血がそうさせるのか知らないが、導かれているような確信があった。階段を降り、再び角を曲がった突き当たりの部屋。そこにシキはいる。
 紅褐色の観音開きの扉はすでに片側が開かれていた。そこから橙色の光が廊下の床を照らしている。ゆらゆらと揺れる光は照明ではない。おそらく部屋に火が放たれている。
「シキ!」
 叫びながら部屋に飛び込んだ。頬に熱気があたり一瞬顔を背ける。額に手の甲をかざし、ゆっくりと目を開ける。その先には……。
 既視感のある光景だった。広間の中央、幾数体の死体を床に侍らせて日本刀を手に佇むその姿。あの日見た、世界の終わりとよく似ていた。
 違うのは窓を覆うカーテンが火に包まれて、部屋を夕暮れのように染めていることだった。
 炎に照らされるシキの横顔は、この惨状に似つかわしくないほど蕭々としていて殉教者のようだった。アキラに気づき、向けた一瞥も何故だか酷く虚ろに見えた。
「何故、ここにいる」
「シキ……?」
「何故、この機に乗じて逃げなかった。お前ならそうできたはずだろう」
 あ……。
 そこでアキラは初めて思い至った。シキと離れているときに内乱が起こったのではない。内乱を予測して、シキが自分から離れたのだ。
「アンタ……この事、わかってたのか?」
「これぐらいのことを勘づけずに今日まで生きていることはできないだろう。久しぶりに面白い余興だった」
 言葉とは裏腹に、その声音は掠れ、乾いていた。
「しかし……この城はもう駄目だな。ここ以外にも何箇所か火が放たれている」
シキは床に転がっている椅子の脚を持つと窓にそれを叩きつけ、硝子を割った。次いで格子枠に手をかけ、力まかせに引き上げる。金属でできたそれが飴細工のようにぐにゃりとちぎれた。
「さて……お前はどうする?」
「どうする……って?」
 割れた窓からはいりこむ風に、炎がさらに煽られる。火の粉が舞いかかるのもかまわずに、シキはアキラを見つめ、言葉を継ぐ。
「まだ、期限までには時間がある。アキラ、お前は何を選ぶ?自らの死か?俺の死か?それともすべてを捨てて生き続けるか?」
 それなら……もう、選ぶまでもなかった。いや、選ぶことなどは最初からできなかった。何故ならアキラの答えはシキの出した選択肢になかったのだから。
「シキ……俺は…」
 言いかけて、突然頭を殴られるような痛みが頭を見舞った。
「ぐ、……うっ」
 鼓動にシンクロしてズキズキと痛む頭に、アキラは膝をついた。目をきつく閉じ額に爪をたてた。荒い息を継いでいると痛みが少しづつ遠のいた。ほっとして目をあけると、火に包まれているはずの視界が霧がかかったように白くぼやけていて、目の前にいるシキまでもが酷く遠くにいるように見えた。
「あ……あ……」
 狼狽に声が震える。しかしシキはそんなアキラの姿にとまどうこともなく、沈着にその一言を告げた。
「記憶が──戻るのだろう」
「…え……」
 思わずアキラは顔をあげた。焦点の合わなくなった目にはシキの表情が伺えない。
「いまのお前が浮かびあがって来る前に同じことがあった。お前が酷い頭痛を訴え、そのまま昏倒した。次に目覚めたときには、いまのお前になっていた。今度はどうなるのだろうな。元に戻るのか。また違うお前が現れるのか……」
 ひやりとした感触を頬に感じた。シキの手がアキラの顔に添えられたらしい。
「どちらでもいい。お前がどんなものになろうと俺は変わりはしない。お前の狂気も不義も、ただ味わい尽くすだけだ」
「シ……キ…」
「選択の答えは先延ばしだ。次にやってくるお前に託せばいい」
 違う──!
 アキラは崩れ落ちそうになる体を必死に立て直し、シキの肩にすがった。
「シキ…俺は…俺が選ぶのは……アン…タ……と」
 そうだ。自分は何も考えずにまっすぐシキの許へと走った。それが何よりの答えだ。次にやって来る自分が別の自分でも、また同じにシキを選ぶことだろう。
 元の自分も選んだのだ。狂わされたのではなく望んだのだ。だって気がついてしまった。自分の存在が同じようにシキを焼き焦がしていることに。
 共にあることがお互いを壊していく。シキはそれをとうに受け入れている。
「アンタ……、と、一緒に…」
 だから、せめてそれだけは伝えなくては。これが自分の選択であることを。もう逃げたりはしない。
「いた……」
 最後の一言を言う前に声がでなくなっていた。全身の力が抜ける。
 ぐらりと傾ぐ体が支えられ、唇をなにかで塞がれた。柔らかく、わずかに冷たいそれは、幾度となくアキラの熱を高めてきたもの。シキの唇。
「…愚かな選択だ」
 唇を触れ合わせたまま、そう呟くとシキは舌を差し入れてきた。アキラもゆるゆるとそれを絡ませる。
 
 次に目覚める自分は何者だろうか。 
 また戸惑い、シキに怯えるだろうか。
 大丈夫だと言ってやりたい。
 何度繰り返しても、俺たちは同じ運命に向かっていく。
 世界の終わりのその日まで、抱き合って笑いあっているだろう。
 ──シキ──
 心のなかでそう呟いた刹那、アキラの、意識の、最後のひと欠片が、飴玉のように溶けて消えていった。

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コメント

ちょ、なんて破滅的でほの暗くて淫靡で余韻のある小説なんですか。
もう何度読んでしまったか…
最高です。

投稿: | 2008年6月12日 (木) 20時44分

コメントは拍手でもこちらでもどちらでもいいですよ。
感想いただけると本当に嬉しいです。
どうもありがとうございます。

投稿: 後藤羽矢子 | 2008年7月21日 (月) 01時55分

ステキでした。。。
ED3のアキラが、自分の意志でシキを選んでくれたのに萌えました!

投稿: | 2008年7月22日 (火) 09時31分

感動しました。いや、本当に・・・いいもの読んでしまいました!
淫靡じゃないED3っていうのもいいもんですねwwwwはい

投稿: motoco | 2008年11月 4日 (火) 22時57分

感想ありがとうございます。

じつは作中で書くのをすっかり忘れてたのですが、アキラの記憶障害はENED時代に記憶を弄られたときの後遺症ということになってます。ここで書くなよってカンジですが…。

投稿: 後藤羽矢子 | 2009年8月 7日 (金) 22時31分

なるほど。こちらのお話に破綻が無いのは、設定をこれでもかっと読み込んでおられるからなんですね。
 このお話も大好きです。切ない…ですけど。淫靡アキラたんがシキさん以外の男性を誘惑するようになったのは、狂おしい程シキさんを想ってしまったから、冷める暇の無い熱に抗えなかったから、そう自然に納得してしまいました。アキラたんの深心の思いがシキさんに届きますように…。

投稿: ほのほの | 2009年8月 9日 (日) 02時22分

PC画面にネ申が降り立たれた...(//c//)
最高のMOE(*´∀`*)をいただきました!!!!!!!
ありがとうございました!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

投稿: November | 2011年12月11日 (日) 19時20分

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