悪魔を憐れむ歌
暗闇のなかにいた。
暑くもなく寒くもなく、空気の揺らぎさえもない。限りなく無に近い空間に、ライはひとり佇んでいた。
ここを黄泉路だと思うだろう。この空間で意識を取り戻す前に、自分の身に起こったことを考えるならば。だが、ライは理解していた。自分のおかれている状況を。
そっと自分の頭に手を伸ばす。本来なら薄く、柔らかい毛に包まれた耳があるはずの場所には、冷たく、硬い、捩れた角が生えていた。
尻尾を振りあげ、自分の掌に乗せる。それは鞭のようにしなり、革のような感触を伝えていた。
最後に右手をそっと、自分の左目に添えた。
引き攣れた肉の感触。眼球はもはや失く、落ち窪んだそこは底なし沼のようなぶよぶよとした指ざわりだった。
この目が最後に見たものをライは思い返す。
もういつそうなったのかは朧気ではっきりとしないが、蝕の頃──だっただろうか。
あの赤黒い空と同じ色に自分の意識も塗りつぶされて、目に映る猫を切り刻んでまわった。
血を浴び、臓物を引きずり出し、その温もりの愉悦に浸っていると、目の前にくるくると一匹の悪魔が降り立ち──なにごとか語りかけてきた。
もう、そのとき何を言われ、何を言ったかは覚えていない。覚えているのは、その悪魔の体がやがてメキメキと膨れあがり、自分が長らく追っていた魔物の姿に変わったことだ。
全身の血が逆巻くような高揚を感じ、数年前と同じように、その魔物と闘い、数年前と同じに相討ちになった。
違うことは──どちらも、命を落としたことだ。
そして自分は入れ替わりに、悪魔に転化した。自分の目を刺し貫いた魔物の爪から様々な記憶が流れ込んできて、生まれ変わったばかりのライの心は少なくとも赤子のように真っ白ではなかった。
ふと、背後で空気が揺らいだ。
その方へ意識を向けたとたん──視えた。体を向けてもいない場所が。
闇のなかに赤い炎が揺らめきたち、拡散し、そこから、ふたつの影が現れた。
深紅の長い髪を波立たせて悠然と立つ大柄な体躯。見たことはないが……知っている、自分は、この悪魔を。
ラゼル──憤怒を司る悪魔。
「歓迎しよう。殺戮の喜悦に酔いしれし者よ。喜悦で魂を磨き、我が同胞に転生せし者よ」」
低音だが艶のある声が、威厳を持ってライの耳に届く。
いまの自分は、この悪魔と同族なのだ。なんとなくそれを認めたくないのは、まだ自分が転化したばかりだからだろうか。そう思い、ふとラゼルの隣に寄り添う小柄な影に意識を向ける。
知っている…自分はこの悪魔を。与えられた記憶からではなく、本当に知っていた。
「コノエ……」
自分のなかにまだ驚愕という感情があったということにライは驚く。
旅すがら森のなかで、知り合った年若い猫。
コノエという名のその猫が賛牙であったことは、信じがたい幸運だった。猫には呪いもついていたが、そんなことは些細なことだった。賛牙を得るということは、川面に流れる花びらをつかむような至難であるのだから。
しかしその呪いを祓うべく、やってきた砦で……コノエは倒れた。
まるで眠るようにストンと倒れ、しかし顔はどんどん青ざめていく。こみあがる惑乱に、コノエを抱きあげようとした途端──一陣の風が自分たちを取り巻き、目を開けたときには、コノエはいなくなっていた。
一緒についてきていた黒猫は、コノエの名を叫びながら森に入っていった。それきり会っていない。自分はといえば、貴重な賛牙を失った落胆は感じていたが、以前に戻っただけであったし、どうということはなかった。しかし……
自分の内に潜む紅蓮の狂気に飲まれることが多くなったのも、それからだった。
「コノエ、あの者はお前の仲間だったのだろう?再会できて嬉しいか?」
黒と緋色の衣に身を包んだ悪魔は、自分に寄り添うコノエの頭をそう言いながらそっと撫でた。その頭には黒く湾曲した角が生え、ラゼルによく似た衣の裾からは、黒光りする尾がのぞき、、コノエも既に猫ならざる者であることを告げていた。
いま思えば……あの風がラゼルだったのだ。
「忘れてたけど……思い出した。ライ、また会えて嬉しいよ」
糖蜜が滴るような声音でコノエが囁く。……こいつは、こんな物言いをする猫だったか?いや、もう猫ではないのか。
「俺のほうが先に悪魔になったんだよ。アンタには俺が色々教えてあげるよ。この世界のこと…なんでも聞いて」
言いながらコノエはラゼルの二の腕に頬を摺り寄せた。猫の名残を思わせる仕草だった。
「いらん」
憮然となってライは答えた。
「お前に教えを請わなくても、もうあらかた知っている。自分が悪魔として為すべきことも、力の使い方も」
ライの胸のなかに、チリ、と苛立ちが走った。気に食わない。この赤い悪魔の、子供に言ってきかせるような穏やかな口調も、コノエの娼婦のような態も、奴らの、いけ好かない稚児趣味のような揃いの服も。何もかもが気に食わなかった。
しかし、ライの放つ棘など、まるで意に介さず、コノエはライの傍まで歩み寄ると、そっとその角に触れた。
「変わらないね。ライは。でもまだ知らないことは、いっぱいあるはずだよ。まあ……おいおい知ると思うけど。とにかく……これからよろしく」
それに対してライが答えずにいると、ラゼルの声が続いた。
「俺たち悪魔同士は、仲間というものではないが、ある種の共生関係にある。他の悪魔とも顔を合わせておいたほうがいい。何なら俺が繋ぎをつけてやろうか?」
「……いらん!」
喉から思わず威嚇の唸りが出た。ラゼルはくつくつと笑うと「コノエ、お前と同じだな。猫というものは怒っても可愛いものだ」
「もう俺は猫じゃないよ!」
媚びるように拗ねた声をあげて、コノエはラゼルの腕にしがみついた。
「新たな喜悦の悪魔よ。これからの永き時間が互いにとって有益なものであるように」
およそ悪魔とは思えない台詞を吐き、ラゼルは腕を振りあげると、来たときと同じように炎を巻き上げて空間に消えていった。コノエと一緒に。
空間は静けさを取り戻したが、もうそこは闇ではなかった。ライの傍らにゆらゆらと揺れる緑の炎があった。
それはライが司る、喜悦の象徴だった。
ライはその後しばらく、悪魔の為し事に従事した。
喜悦に支配された者の召還に応じ、願いと引き換えに差し出されたものを食らう。
悪魔を召還して利を得ようとする小ずるい者の魂は、大抵濁っていてひどい味だ。まだ気狂いの魂のほうが純度があった。それでも力を蓄えるためには食らわねばならなかった。
ひとつ魂を食らうたびに、空間に物が増えた。
寝台、玉座にも似た椅子、紛い物の花。
寝台も椅子も、何故か動物の骸骨を幾重にも積み上げて作られていた。寝台などは天蓋の部分が、巨大な魔物の肋骨で出来ており、横になると魔物の腹のなかにいるような気分になった。
悪魔の空間というのは、皆このようなものなのだろうか。それとも……
ライが座り心地があまりいいとはいえない骨の椅子に身を預けていると、背後でまた、空気の揺らぎを感じた。
振り返らずに意識だけ向けると、案の定コノエだった。
「こんにちは」
「今日はラゼルと一緒じゃないのか」
「ああ。俺だけ」
言いながら、ペタペタとわざとらしく床を踏み鳴らし、コノエはライの前まで歩み寄った。そしてあろうことか、椅子に腰掛けているライの膝の上に乗り上げて座った。
「……何をしている」
「だって、他に座るところがないから」
「床にでも尻をつけてろ」
「やだよ」
からかうように言って、コノエはライの胸板に背を凭れかけた。
コノエの体は軽かった。もとから華奢な体ではあったが、さらに痩せたようだ。悪魔は物を食べなくても生きていける。必要なのは、司る感情とそれに準じる魂だ。コノエはそれらを食らっていないのだろうか。
「お前は、悪魔としては無能なようだな……」
猫であった頃のコノエなら、牙を剥いて怒るであろう台詞を吐いても、いまのコノエはふふ、と笑うだけだ。
「だって面倒だからさ。頼まれごとを聞いてまわるなんて。俺にはどうでもいいことばかりだ。まあ、ラゼルが俺に色々食べさせてくれるからそれで充分だよ」
また、ライの胸に何かが走った。焦げるような嫌な何かが。
「おい、いいかげんここをどけ」
恫喝するように低く唸ってみたが、コノエはまるで動じなかった。
「……じゃあ、俺がアンタの上に乗ってても不自然じゃないこと、しようか」
さらりとコノエの口から出た言葉。反芻して意味を悟り、ライは呆れた。
「お前は、ラゼルの情人じゃないのか」
コノエはライの言葉を聞くと、背を丸めて笑い出した。ひとしきり笑うと息をつき、また大きくライに凭れる。今度はライの肩口に頭を乗せ、その首筋に額を摺り寄せた。
「……悪魔に貞操なんて求めてるの?ライだってわかってるだろう?悪魔は己の欲望にどこまでも忠実だって。俺はアンタとしてみたいと思ったから、そう言っただけだよ。アンタは……どうなんだ?俺を抱きたいと思わない?」
猫であった頃のライならば、とうにコノエの体を突き飛ばし、侮蔑のまなざしをくれていただろう。しかし、コノエと同じにライもいまは猫ではなく、そして欲望に忠実な新しい自己を感じていた。
……あまり認めたくないが、ライもコノエに欲を感じていた。それも彼が悪魔に堕ちる以前から。もちろん、それもいま思えばの話だが。
ライはコノエの顎をつかみ、上向けさせる。わずかに開いたコノエの唇の間から艶やかな牙と赤い舌が覗いた。その唇が「……ライ……」と囁く。
淫猥な声音は情事の始まりを告げていた。
「……趣味の悪い寝台だ。ライ、これもう少し何とかならないの?」
「……黙っていろ」
魔物の亡骸でできた寝台にコノエを抱き上げて運び、ライはその体を貪っていた。くちづけを交わしてまず驚いた。絡むコノエの舌はひどく甘かった。
味覚的に甘いというのではなく、脳に直接「甘い」と訴える味だ。咥内をたっぷりと味わい、コノエの首筋にも舌を這わせる。そこも同じように震えるほどの美味だった。ライは溺れそうになる自分を必死で律しながら、コノエを愛撫した。
コノエもまた、ライの体のあちこちに舌を這わせ、段々と息を荒くしていく。
やがて二人は互いの下肢に顔を埋め、一番敏感で甘い部分を味わいあった。
コノエの細い体をライは自分の上に跨らせ、秘所をライの眼前に晒す格好をとらせた。コノエはそんな痴態にも恥ずかしがることなく、腰をくねらせてライを誘った。
すぐにでも食らいつきたい衝動を抑え、ライはコノエを焦らすために、敏感な部分の周辺ばかりを嘗め回した。対してコノエの手管はまっすぐで、ライの肉茎にすぐさまくちづけると、咥え込み、いきなり喉の奥までそれを誘う。
「……く……」
ライの食いしばった歯の隙間から呻きが漏れた。コノエの細腰を掴む手に力がはいり、爪が食い込む。それにすらコノエは小さな嬌声をあげる。
ライも、コノエのそこに舌を落とした。「ん……ぅっ」とコノエがライを口に含ませたまま呻く。縋るように舌を絡ませ吸い上げ、大きな息をついて、いったん顔を離す。
雨露をまとった蜘蛛の糸のように、唾液が糸を引く。
「ライ……美味しい。ライのが、一番……美味しい」
ライの胸に一瞬、複雑な情動がよぎった。猫だった頃のコノエの姿。まっすぐで思いつめた瞳をしたあの子猫が、ここまで堕落する間にいかほどのことがあったのか。しかしそれでも、コノエの媚態におめおめと揺さぶられている自分もいる。
この体にもっと快感を刻んで、犯して侵して冒したいと思う。
それが雄としての本能なのか、悪魔としての在り方なのか、ライには、判別がつかなかった。
コノエの体をいったん自分の上から退かし、あらためてシーツの上で四つん這いにさせる。コノエの唾液で濡れた自分の肉茎をコノエの臀孔に押し当てた。
ぐ、と腰を押し進める。そこは意外なほどきつく、生木を裂くような心地がした。
「あっ……ひ、ぃっ」
コノエの喘ぎが悲鳴のように裏返った。痛々しいとは思わず、逆にもっと泣かせたいとライはかまわず己を根元まで押し込み、間髪をいれずに揺すりあげた。
「あ、あ。…あっ…」
「……辛いか?」
コノエは小さく首を振る。
「いいよ……ライの。大きくて…すごい…」
ライは吸い込まれそうになる感触に耐えながら、荒い息で笑った。
「お前は…淫魔にでもなったほうがよかったんじゃないのか…」
「…そう…だね…」
そのあとにシーツに顔を埋めたコノエが何か呟いたような気がしたが、ライの耳には届かなかった。自分を引きずりこもうとする波に抗いながら、コノエを犯し、いつの間にかライも溺れていた。もう、さして淫魔と変わらないじゃないか。お前は。
コノエの体に白いつぶてを叩きこみながら、ライは忌々しくそう思った。
その後のふたりを止めるものは何もなかった。
コノエは、ろくに日も置かずライの元へやって来ては、猫の仕草でライの体に擦り寄った。ライもまた、なんの遠慮もなくコノエの体を抱いた。コノエの孔に身を埋めていないとき──事前も事後も、絶えず互いの体をまさぐりあい、くちづけを落としあった。愛撫はだらだらと途切れなく、ふたりでいる時間そのものがひとつの淫事だった。
「…呼んでる……」
コノエがライの肉茎を舐めしゃぶりながら、ぼんやりと呟いた。
「何がだ?」
「ラゼルが……」
ラゼルが眷属の頭に直接呼びかけているらしい。
「行かなくていいのか?」
「いいよ…どうせたいしたことじゃない。アンタの…これのほうがいい」
そう言ってコノエはまた、ライの足の間に顔を埋めた。
ライはひそやかに略奪の悦びを感じていた。コノエの心はいま赤い悪魔ではなく、自分のほうを向いている、ラゼルのあの穏やかな表情の下に渦巻く悋気を思うと愉快だった。
自分に奉仕するコノエの頭を撫で、戯れに角もくすぐる。コノエの体が震え、「こんなところまで感じるのか」とライは笑ってみせた。
「…どうした。それは」
「ラゼルに焼かれた」
悪魔の時間に昼も夜もなかったが、それでも猫の世界でいえば、陽の月が3回昇って沈むほどの間、コノエはライの前に姿を見せなかった。
そしてさきほど、やっと現れたかと思えば、ひどく憔悴しているようで、よく見ると衣の左の袖が失くなっており、外気に晒されている腕は赤く爛れていた。
「…俺と会っていることをラゼルに咎められたか」
「それは関係ない。このあいだ、呼びかけを無視したことの罰だよ」
小さく息をつき、コノエは寝台に腰掛けた。
「ラゼルはべつにそんなことで怒ったりしないよ。たとえ俺が百人の悪魔と寝ようとも、あれは気にしたりしない。ただラゼルの命令は絶対に聞くように言われている。それに背いたときだけ……ラゼルは俺に罰をくれるんだ」
一瞬、ライの胸に不快なものが走ったが、目の前のコノエの焼け爛れた腕のほうが気になった。仮にも悪魔だ。死者を生き返らせることまではできないが、この程度の怪我なら魔力で癒すことができる。
コノエの腕に術をかけようとかざした。しかしコノエは頭を振ってその手を払いのけた。
「痛まないのか…?」
コノエの意図を図りかねてライが呟く。
「痛いよ…もちろん。これぐらい、自分でだって治せるんだ。でもせっかくラゼルがしてくれたことだから。もう少しこうしていようと思って」
今度こそはっきりと不快を感じた。
赤剥けの腕を乱暴につかむ。コノエが小さく呻くのにもかまわずに、ライはその腕を自分の唇にまで持っていき、遠慮なく舌を這わせた。
「……痛い」
コノエの口調にあからさまな非難が滲む。
「俺の与える痛みは嫌か」
「嫌だ」
「……そうか」
「わかった」とは言わなかった。ライは、その腕でコノエを寝台まで引きずって行き、放るようにシーツに沈めた。嫌がるコノエの両腕を自分のそれで押さえつけて、爛れた腕をまた舐め始めた。
「痛い……痛い!」
コノエの非難がやがて言葉を成さなくなり、啜り泣きに変わっても、ライはコノエの腕を舐め続けた。五本の指の又にまで舌をやり、すべての部分を舐め終える頃、コノエの腕はすっかり治って白い肌に戻っていた。
「………」
俯いて自分の左腕を見つめるコノエの心中を知りながら、ライはわざと「礼はどうした」と言ってやる。コノエはそれには答えず、のそのそとライの前まで四つん這いで歩み寄ると、ライの足の間に割ってはいり、下肢の膨らみに顔を寄せた。
「いま……する」
乾いた声音だった。
それからしばらくして──ラゼルの計らいで悪魔同士が会することになった。
ライは他の悪魔のことなどさして興味はなかったが、一度は会っておく必要があるとラゼルはライの頭に直接語りかけて呼び出したのだ。
「共生関係にある者同士、多少の繋がりは作っておくべきだ。俺とお前は一度顔を合わせている。それだけでこうして、お前の心に呼びかけることができる。どんなものでも持てるものは持っておいたほうがいい。お前がまだ、力を欲しているのならば」
そうしてライは不承不承ラゼルの導いた空間で他の悪魔たちと顔を合わせた。
悲哀、快楽、憤怒──やつらのなりなど、どうでもいいとばかりにライは顔を動かさず意識だけで一瞥する。ふと、ラゼルの横にコノエが寄り添っているのを見てとって、胸底に焦げるような不快が沸く。
「お前もさぁ、フラウドと一緒かよ」
突然、象牙の色の髪を短く刈り込んだ悪魔が、ライに不躾な視線をよこして言った。与えられた記憶が、この男が快楽の悪魔、ヴェルグであることを伝えてくる。
「……何がだ」
「目だよ。目」
ヴェルグが、ライの目に触れようと伸ばした手を、一歩退くことでかわした。フン、とヴェルグが鼻を鳴らす。
「喜悦の悪魔はどいつもみんな×××かよ。治そうと思えばすぐにでも治るってのに、わざわざそうしてるなんてホント、いい趣味してるよなぁ」
治す?
そうだ、そういえば治すことはできるはずなのだ。コノエの傷だって治したのだから。何故かそのことにいまのいままで全く考えが到らなかった。
別にいまでも、ものを「視る」ことはできる。不自由はないので、治す気にならなかったのか?
「……お前も、何か視たくないもんでもあるのかよ」
「視たくないもの?」
「フラウドのヤツが言ってたぜ。肉眼は視たくないものまで、視せてくるからうっとうしいとさ。魔眼は好きなものだけ視られるからいいんだと。俺にはよくわからねえなぁ」
確かにライのいまの眼──魔眼は、意識を向けたものだけを映す。だから後ろを向かなくとも、背後を視ることができるし、どんな遠くのものでもそこに意識を向ければつぶさに視ることができる。
しかし好きなものだけ視られるというわけではない。現に目の前のヴェルグの薄ら笑いに胸が焼けているのだから。
視たくないもの。
視たくない……もの?
ライがほんのわずか考えているうちに、ヴェルグはライから離れ、コノエに声をかけていた。飽きっぽい性質であるらしい。
「チビ子、お前、また痩せたんじゃねえの?ラゼルのおこぼれだけじゃ足りないだろう?あーあ、勿体ねえよなあ。俺の眷属になりゃあ、毎日魂も快楽も腹いっぱい食わせてやるのによ」
そう言ってヴェルグは、ぐしゃぐしゃとコノエの髪を乱暴にかき回した。コノエは肩を竦め「やめろよ」と言ったが満更でもなさそうな声音だった。
「魂は嫌いなんだ。臭くてまずいから。聖者や気狂いのならまあまあ食べられるけど。でも心配してくれなくていいよ。そのへんは、もうすぐ解決できるから」
「元猫の皆々様はどいつも贅沢なこった」
そう言ってヴェルグは両の手を腰に当て、黒光りする尻尾を左右に大きく振ってみせた。
「ほら。お前らの真似」
これこそ、まさに視たくないものだ。ライは眉根を寄せてヴェルグを意識の外から追い出した。
白い骨がからからと鳴る。
ライの空間に、いつの間にか乾いた亡骸で出来たオブジェが鎮座していた。
小さな骨を組んでつくられた束の先端には小さな獣の頭蓋。それが八方に広がるさまは、巨大な花束のようだ。闇のなかで白々と光り咲き誇っている。
「綺麗だ」
コノエはオブジェの前で、子供のように両手を揺らしてそれに魅入っていた。
ライは骨の椅子に腰掛け、その後姿を視ていた。椅子もいつの間にか「成長」し、いまではふたりで座っても余るほどの大きさになっていた。
「こんなもの、あっても何の役にもたたん。邪魔なだけだ」
ライは肘掛けの上で頬杖をついて、つまらなそうに言った。
「そう?目で楽しむことも大事だってヴェルグが言ってたよ」
「くだらん」
「くだらないのかもね。魔眼のライにとっては」
コノエは振り返らない。後姿ばかり視ているのもいいかげん飽きてきた。こちらへ呼ぼうと「おい」と声をかけたとき。
「ライは……何が見たくないんだ?」
コノエの呟きが被さった。
「…自分の眼を治すのなんて、俺の火傷を治すより簡単なはずだよ。ただ見たい
と願えばすむことなんだから。ライは……何が見たくない?」
ぽつぽつとした呟きは、降り始めの雨音のようだった。
見たくないもの。
見たくない……もの。
胸のなかに淀む何かに急かされて、ライは再び考えを巡らせた。
そして、唐突に──あることに気づく。
俺は、コノエの、表情を、視ていない。
顔は視ていたはずだ。コノエと認識していたのだから。しかし、その表情に全く意識向けていなかった。コノエの感情は、声音や仕草で感じていた。唇を合わせているときも。体を重ねているときすら。ライはコノエがどんな表情を浮かべていたか思い出せない。視えていない。
いや、視ることを避けていた──。
それを意識した途端。
「ぐっ……あ、あぁぁぁっ!」
顔の上半分に強烈な痛みが走った。思わず手でそこを押さえて、ライはうずくまった。
かつて目であった場所の肉がぶつぶつと泡立つような音をたてて蠢動した。眼底の奥から、何かが盛り上がってくるのを感じる。これは…眼球だ。眼球が再生しようとしている。両の眼球は産道を通る赤子のようにライに痛みを与え、産声のように大量の涙を湧きたたせた。
涙が頬を流れ、顎に伝い落ちる頃、ライの目の痛みは嘘のように引いていた。
大きな震える息をひとつつくと、両の頬にひやりとしたものを感じた。目を閉じたまま意識向けるが、もう何も視えてはこなかった。
しかし、わかる。これはコノエの指先だ。コノエの両手がライの両頬に添えられている。
ゆっくりと、目を開ける。洗い清められた視界にコノエの顔が映る。その表情は…。
眉根をわずかに寄せ、目には痛ましさ、唇には慈悲の笑み。それは「憐れみ」だった。コノエは、憐れみの表情でライを見つめていた。
「コノ……エ」
コノエはライの顔にそっと唇を寄せてもその涙を舐めとった。
「かわいそうなライ。俺の……餌」
慈しみを湛えたその言葉は、ライをぞっとさせるのに充分だった。
「ラゼルが言ってたよね。俺たちは共生関係だって。怒りが怒りだけを永遠に生むわけじゃない。怒りが喜悦を、嘆きが快楽を生むこともある。俺たちはそうして均衡を保って世界を餌にしてるんだって」
「それが……なんだ」
「俺は極上の怒りを生み出すことができるって…ラゼルが言うんだ。確かにそうかもしれない。アンタが俺に向ける怒りは、深々としていて、研ぎ澄まされていてすごく美味しい…。アンタも味わっただろ?アンタが俺から引き出した、俺の、喜悦を」
「……!…っ」
甘すぎるほど甘い、コノエの唇。いま気づくなんて愚かしいにもほどがある。コノエの体にまぶされた、あれは喜悦の味だったのだ。
「アンタは俺から喜悦を引き出し、俺はアンタから怒りを引き出して、それを互いに食らいあって俺たちは循環する。いい考えだろ?もう召還に応じて俗な猫たちの臭い魂なんて食らうこともない」
ふふ、とコノエはライの顔を見つめて笑った。声は笑っているのに、その顔はいまだ憐憫を浮かべている。
「俺たちは……この世界で、またつがいになるということか…」
ライは呟いた。確かにそれも悪くない。この空間で互いを抱き合い、食らいあって永遠を過ごすのも。
しかし──返すコノエの言葉は刃だった。
「まさか」
慈愛のまなざしのまま、嘲りを含んでコノエは言った。
コノエはライの頬をするりと撫でると一歩退く。そして口元に手をやってくすくすと笑った。
「アンタのものになんて、なるわけないだろ。言っただろ。アンタはつがいじゃない。俺の、餌だって」
「………」
「俺は、ラゼルのもの。俺の髪の毛一本まで、あの人のものだ。アンタにはあげない。だって、そうだろう?アンタのものになんてなったら、アンタから怒りを引き出せない」
「………!」
火の中にくべた木の実が爆ぜるように、ライの胸のなかで何かが幾重にも弾け、怒りで目の前が真っ赤に染まった。強烈な、嵐のような、眩暈がするほどの鮮やかな怒りだった。
「お前は……っ!」
椅子から立ちあがり、大股一歩でコノエの前に立ち、その首を鷲掴みにした。
白く細い首に、ライの爪が食い込む。このままその首をへし折ることは容易いだろう。頚動脈を爪で断ち切ることも簡単だ。
なのに、できない。
ライに命を握られているはずのコノエは、苦しさに顔をしかめることもなく、まだライを憐れみの表情で見つめていた。それがさらに怒りを煽る。眉間に深く皺を寄せ、牙を剥き、ライは唸った。もう一息、指先に力を込めれば、コノエをくびり殺せるはずなのに、それは凍ったようにびくともしなかった。
「……く…っ…」
逆巻く怒りは体を突き破り、四散しそうなほどだった。ライは怒る。コノエに対してだけではない。愚かしい己自身に。
コノエを殺せない自分に。
悪魔に身をやつした自分に。
あの砦でコノエを守りきれなかった自分に。
……コノエが…愛しくてしかたがない自分に!
指から力が抜ける。解放されたコノエは膝をつき、ずるりと床に倒れこんだ。しばらく背を丸めて咳き込んでいたが、やがて涙に濡れた顔をライのほうに向けた。
「ライ……」
小さな呼びかけにライも跪き、コノエの傍による。コノエの手がそっとライの肩を抱き、小さく引き寄せる。そしてライの唇に顔を寄せると猫のようにぺちゃぺちゃと舐め始めた。
「美味しい……ライの、怒りが、一番美味しい」
ライも薄く唇を開け、コノエの舌を舐めた。コノエの生みたての喜悦は頭が眩むほどの美味だった。天上の、地獄の味。
「ライ…悪魔は欲望に忠実だって言ったよね。でもそれは逆をいえば、欲望には逆らえないってことなんだよ。かわいそうなライ。アンタは俺から離れられない。俺のためだけに怒りを生み続ける……永遠に」
ライの胸のなかに新たな燠火が生まれる。目の前の小さな憤怒の悪魔は、いまに自分を内側から焼き殺してしまうかもしれない。
「前に言った言葉……取り消そう。お前は最高に有能な悪魔だ」
「…ありがとう」
ライはコノエを引き寄せて、その体を強く抱きこんだ。互いの体に手をまわしあい、そのままもつれるように闇に沈んだ。
ぬらぬらとした、薄い緑の光がたゆたう空間に、コノエの喘ぎが響き渡る。
高く、細いそれは歌のようだった。
そう、それは歌。
コノエの上で蠢く喜悦の悪魔。彼を──憐れむための歌だった。
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コメント
コノエたん、ライさんを翻弄する程の立派な悪魔になったんですね。悪魔な二人のイラストのコノエたんは、確かに妖しい魅力を漂わせていましたし。目的はどうあれ、求めあい満たされあう二人は、哀しくも幸せなのではないかと思います。
実は、コノエたんが可愛すぎて、怖い思いも痛い思いもさせたくなくて、BAD ENDは全く見なかったんです。ほとんどの方が引っ掛かってしまうと噂のラゼルさんの罠も掻い潜り、守り通しました(笑) その後、ハッピーエンドを迎えてから、ラゼルさんだけは、怖くも痛くも無さそうだったので見てみたんですけど。それ以外は未だ勇気が出ないので、悪魔なライさんがちょこっと覗けて良かったです。
投稿: ほのほの | 2009年8月 9日 (日) 03時24分