白い花びら
アキラはシキの寝顔を見たことがなかった。
トシマでシキと共に過ごした時間は短く、そのほとんどが身体を合わせることで費やされた。
シキはアキラの前で決して眠らなかった。アキラを啼かせ終わると、声もかけずに部屋を出て行くのが常だった。もしかしたら、あのアパート以外に別の根城があったのかもしれないが、いまとなってはどうでもいいことだ。
何故なら──シキはいま、アキラの目の前で無防備な寝顔を晒している。
ふたつ並びのベッド、その窓際のほうでシキは安らかな寝息をたてていた。
開け放した窓からはいる風が前髪を揺らしても、シキはぴくりともしない。どれほど深く眠っているのだろうと、隣のベッドに腰掛けて、アキラはじっとシキを見つめていた。
遠くから兵士の号令らしい声が聞こえてくる。そうだ──外では戦争をやっているのだ。
日興連の駐屯地にはいり、数日──いまは避難民用の仮設住宅の一部屋に二人はいた。
アキラは、殺人容疑、シキはシキでいわくのあり過ぎる身の上、留置場にこそ入れられなかったが、ベッドとチェストしかない簡素な部屋は限りなくそれに近い。部屋に施錠はされてないが勝手に出歩くことは禁じられていて、貸し出された本だけを娯楽に、二人はずっと同じ部屋の空気を吸っていた。
シキとこんなにも長い時間を共にしたのは初めてだった。しかしシキはアキラの身体には触れることなく、会話することもほとんどなかった。軍の取調べや食事、それ以外の大半の時間をシキは寝て過ごしている。
駆けるように生きてきた男には、休息が必要なのだとアキラは思う。思おうとしている。しかし胸の奥が絶えず不安でチリチリとして、アキラは救いを求めるようにシキを見つめる。横たわる男の美しい顔が、自分を支配していたときと変わらないものであると信じたかった。
ふいにシキの寝息が深くなった。そのままため息のような呼吸を二、三度続け、唐突に赤い眼を開けた。
「シキ……?」
アキラが声をかける。シキは上体を起こすと、ふるりと頭を振った。
「……どれぐらい寝ていた?」
「あ、ああ……4時間ぐらいか」
「…そんなものか」
言いながら、シキはアキラに顔を向けた。その目があまりに虚ろでアキラはぞっとなった。寝起きのせいだとアキラは自分に言い聞かせ、シキに水のはいったペットボトルを渡した。
シキは黙って水を飲み、ただそれだけのことにアキラは安堵した──
シキの「何か」が少しづつ欠けていく──
昨日より今日、半日前より、いまこの時。目覚めるたびにシキは自分のなかの何かを落としていく。
それは白い花びらが、ゆっくりと一枚一枚落ちていくのによく似ていた。
そう、シキは白い花のようだとアキラは思う。高潔で、繊細で、孤独な花。トシマにいた頃はそんなこと思いもしなかったが、闘いから離れた男はただただ美しいばかりで、アキラを意味もなく切なくさせた。
シキをシキ足らせるものを、いまのシキは持っていない。
覇気、自信、闘気、そして……日本刀。
日興連にはいり、難民申請をしていたとき、駐屯所の職員はシキが右手に持つものを目ざとく見つけ、それを没収すると言った。
隣にいたアキラは、シキが職員の男をその場で斬り殺すのではないかとヒヤリとしたが、シキは何も言わずそれを男に投げるように渡した。それはまっとうなことであるのに、アキラはひどく傷ついた気分になった。
その刀に触るな──アキラは男に怒鳴りたい衝動を堪え、下を向いた。トシマのアパートの一室で慈しむように刀の手入れをしていたシキ。この刀以外は使わないと言っていたシキ。それほど大事だったものを手放し、なんの感情も浮かべていないシキの顔をアキラは見たくなかったのだ。
夕方近くに軍警察に呼び出された。
アキラの冤罪が確定されたという。
エマの死後、彼女が殺人容疑を捏造するためのいくつかの証拠が部屋で発見されたという。
戦争は力だけのぶつかり合いだけでなく、国の汚濁を明るみにすることも武器になる。
その点で軍の人間が殺人を捏造したという事実は、充分日興連側にも有利な手札だった。だからこそこんなにも早く、警察が動いたのだろう。
白いが妙に陰鬱な部屋で、アキラは今後の身のふり方を勝手に決められていた。
罪は晴れたが、手駒としてまだ軍の目の届くところにいなくてはいけないらしい。職と住居は手配するから内戦が終わるまでは、そこにいるように。そう告げる男の口調は淡々として、アキラの意思などまるで考えていないようだった。
吐き気がする──どいつもこいつも、自分を好き勝手にしようとする。ただ自分は自分でいたいだけなのに、たったそれだけのことを何故許してくれないのだろう。アキラは唇を噛みしめた。
しかし男を殴って部屋を出るわけにはいかなかった。アキラには、まだ聞かなくてはいけないことがあった。
「……シキは、どうなるんだ?」
「シキ?」
男がおおげさに眉をつりあげた。一緒に眼鏡の縁が動く。
「お前の同室の男か。あの男は……こっちでいうところの戸籍の上でなら死んでいることになる」
「……死?」
思いがけない返答にアキラの目が見開かれ、固まった。
「国民番号を照合したところ、パーソナルデータは確かにあった。が、それによれば3年前に死亡していることになっている」
「………」
「確かに幽霊のような男ではあるがな。おそらく身元を偽装しているのだろう。どちらにしろCFCに強制送還することになる。幽霊も犯罪者も日興連の法ではどうにもできないからな」
気の利いた冗談のつもりだったのだろうが、アキラは男の言葉に呆然とするしかなかった。
シキが書類上で生きていないことも、男がシキを「幽霊のよう」と形容したことも。
部屋に戻るとベッドの上で窓枠にもたれ、ぼんやりと夕空を眺めるシキの姿があった。確かに最初からこの姿だけを見ていれば、シキを幽霊のようだというのも当然かもしれない。トシマにいた頃の、闘気を纏うシキの姿が鮮烈で、もしかしたらそれこそがシキの幽霊なのかもしれないとアキラは思った。
「……シキ」
声をかけたらかき消えてしまうのではないか──そんな不安をわずかに孕ませてアキラはシキに声をかけた。シキはゆっくりとだが振り向いた。
「…軍警察のヤツが言ってた。アンタが死んでることになってるって」
言いながら、アキラはシキが座ってるベッドに腰掛け、赤い瞳を覗き込むように顔を寄せた。
「アンタ…身元を偽装しているのか?アンタは本当に「シキ」なのか?」
何故、こんなに切羽詰った気持ちになっているのか。シキについては知らないことばかりで、いまさらそれがひとつ増えたところで何も変わりはしないのに。
「……俺の名は…俺のものだ」
ぽつりとシキが言った。
「シキ……」
「殺したい男がいた…そいつには子供が大勢いた。母親の違う子供も、同じ子供もいた。男には跡取りを大事にするという考えがなく、逆にあえて危険に晒すような真似をさせた」
突然──詩を詠うようにシキが言葉が紡ぐ。
「囮に使うこともあれば、戦地に出すこともあった。死ねば、そこまでの人間だったということだ。結局残ったのは、俺ともう一人だけだった」
まるで別の国の物語を聞いているようだった。
「男が俺に自分の椅子を譲ると言ったときに、囚われているのが馬鹿馬鹿しくなって、自分が纏うものをいくつか斬った。そのときに俺は死んだことになった。それだけだ」
話は端折られすぎて要領を得なかったが、シキがシキであることだけは確かなようだった。そしてシキがこんなに長く話すのを聞くのも久しぶりで、アキラはホッと肩を落とした。
しかし──
「アンタをCFCに送り返すって、ヤツらが言ってた。シキ…アンタはどうしたいんだ?このまま何もしないで待つのか?」
シキの目はゆらゆらと宙をさまよっていたが、唇は何か言葉を紡ごうと、かすかに動いていた。
アキラはシキの言葉を待ったが、出てきたのはおよそ実のない言葉だった。
「…お前は…どうしたいんだ」
「シキ…!」
思わず叫んでいた。
「アンタ…どうしたんだ?自分のこと…おかしいと思わないのか?いまのアンタ、散ってく花みたいだ。そんな自分を…アンタは許すような人間じゃなかっただろう!?」
アキラはシキの肩を掴んだ。夕焼けがシキの顔を照らし、色濃い影をつくる。こんなに近づいてもシキの表情が伺えない。わからない。それがいまの二人のありように似ていてアキラは悲しくなった。
どれほど近づこうと、自分はシキをわかることができない。身体だけなら──何度も何度も、これ以上はないほど密着し、自分で触れたことがない部分まで擦られて、体液を混ぜあって。
それでも──自分はシキの欠片も得られないのだ。
いつの間にか、アキラはシキに互いの息がかかるほど顔を近づけていた。シキの目が見たいと思ったら、そうなっていた。 だがシキの赤い眼はほとんど長い睫毛に隠されていて、それだけのことも許してくれないシキに苛立った。だから──代わりに唇を寄せた。
シキの唇は冷たかったが、間から漏れる息は温かかった。その温もりに縋るようにアキラはくちづけを深くした。
シキの薄く開いた唇の隙間に強引に舌をねじ込む。アキラにとっても初めての行為で、人の口腔の柔らかさに一瞬怯んだ。しかしシキの舌がわずかに応えるように動いたのを感じ、自分もそれを絡ませる。夢中でシキの舌を味わううちに、身体はシキに重みをかけ、それをシキは支えようとしなかったので二人の身体はベッドに沈んだ。ギシリとスプリングが安い音をたてる。
それでもアキラはシキの唇をむさぼっていたが、突然触れ合った部分からシキが笑いまじりの吐息を漏らした。
慌てててアキラが顔を離す。シキの目は虚ろで、唇だけが嘲るような笑みを浮かべていた。
「何を苛ついているかと思えば……餌が欲しいか?」
カッと顔が熱くなった。違うと言おうとして言葉を飲み込んだ。
違いやしないのだ。自分はシキを欲している。シキの思い、見つめるものの断片、だけどそれは星のように遠い。だからいまは身体だけでもいい。身体だけでも……欲しい。
アキラはシキの耳に唇を寄せ「そうだよ」と自嘲まじりに呟いた。
シキは鼻で笑い「好きにしろ。勝手に食らえばいい」と言った。言葉と裏腹に口調はひどく優しく、アキラには睦言のように甘く響いた。
アキラはシキの首筋に顔を埋めて、シキの匂いを嗅いだ。シャツごしの胸板に頬をすりよせ、だんだんと顔をシキの下腹部へと移していく。
ベルトの金具を外し、パンツの前を開けた。取り出したシキの雄は柔らかかったが、芯のほうが硬くなり始めている。促すようにアキラは、それを口に含んだ。
唇で根元を咥えて支え、舌で幹を上下に舐った。舌の先に血流のざわめきを感じ、ゆとりのあった咥内がシキのもので満たされ始める。
「んっ…んん…」
頭を上下させ、口の粘膜全体でシキを扱く。すっかり硬くなったシキの雄をえづきそうになるほど喉の奥にいれ、粘る唾液を全体に絡ませた。
「教えてもいないのに……随分と達者なことだな」
シキの掠れた声が聞こえ、アキラはシキの雄から顔を離した。唾液で濡れそぼる幹を今度は手で扱き、挑発を含んだ声で言った。
「べつに…自分のしたいようにしてるだけだ。アンタだって…いつもそうやって俺を抱いてきただろう?」
幹から手を離す。すっかり血の集まったそこはビクビクと脈うち、もう、すぐに萎えたりはしないだろう。アキラはシャツとジーンズを脱ぎ落とし、全裸になってシキに跨った。自分の指を唾液で濡らし、臀孔に指を潜らせた。アキラの雄は触れてもいないのにいきり立っている。
浅ましい姿だと思ったが、それをシキに見られるのを恥じる気持ちはなかった。むしろ嘲ってほしいと思った。トシマにいた頃のように。
自分の指で自分を犯しながら、アキラは眇めた目でシキを見た。シキもアキラを見つめていた。トシマにいた頃のようなナイフのような眼光はないが、光はあった。それが雲の隙間から覗くような頼りないものでも、虚ろではない。空っぽではなかった。
自分がわずかでも、シキを「引き戻せている」ことに、アキラは安堵のため息を吐いた。身体のほうも、ほどよくほぐれたのを確認して、ゆっくり己の孔から指を引き抜き、すぐさまシキの熱をあてがった。
「ん……あっ…」
久しぶりの情交に、身体はなかなか開かなかった。ほぐれたのはせいぜい入り口のあたりだけで、その先にシキを誘おうとすると硬い肉が軋んで引き攣れる。
だけどその痛みがアキラには嬉しかった。自分を引き裂く熱と硬さはシキの生きている証しであったから。
身体を重力に預け、自分を強引に貫かせながら、この痛みはシキそのものだとアキラは思った。身体だけでなく心にまで痛みをもたらす男。ずっとシンプルだった自分の情緒に名付しがたい感情を上塗りし、惑わせ苦しめる男。
しかしそれが何故か甘く感じることも教えられた。いまだってその甘い痛みを求めてシキに跨っている。ラインどころの話じゃない。もっともっと、ずっと根深い──逃れられない。
「ぅ……あっ」
シキの昂ぶりを根元まで飲み込んだ。大きくゆっくり、震える息を吐く。シキに目をやると、その姿はひどくぼやけていて、自分が涙ぐんでいることに気づいた。ほどなくして頬に涙が伝っていく。
シキの白く長い指がアキラの頬に添えられ、そっと涙をぬぐう。
「……そんなに、いいか?」掠れた声が問う。
「いい……すごく…」
シキがゆっくりと上体を起こした。アキラの間近に顔を寄せ「……愚かしい」と呟くと、静かに唇を寄せた。そのままアキラの背中を強く抱きしめ、ゆっくり腰を揺すり始めた。
「あっ…あ、あ、うっ、く」
アキラの嬌声はシキの舌に絡め取られる。アキラもシキに手を回し、シャツごとその背を掻きむしった。
「……散る花のようだと言ったな」
アキラを穿ちながら、シキが言った。語尾が吐息で掠れる。
「シ……キ…?」
「…花が散るのは自然なことだろう…。散らない花などまがい物だ。月が欠けるように…人が老いるように……っ…俺が…「こうなる」のも…それは…自然でしかない。止められやしない」
快楽の吐息をはさみながらシキが紡ぐ言葉は、アキラを凍りつかせた。
なのに、身体の奥を擦られて、シキの手に自分の雄を握りこまれて、身体は甘さにまきこまれる。悲しみは確かに感じているのに、それが腹の底にざわめくような快感をもたらしているのも確かで、そんなものをも快に変えようとする自分に腹立ち、アキラは強くかぶりを振ってそれに抗おうとする。
「嫌…だっ…シキ…」
シキの手がアキラの腰を掴み、抽挿を激しいものにしていく。突き上げられて仰け反る。悲鳴のような短い喘ぎが零れ落ちる。
「ひっ……あっ、あ」
「腹を満たして忘れてしまえ。つまらんことは」
「や……だ…っ」
抗う言葉は、唇を塞がれて封じられた。直後、ひときわ大きく突き上げられて、アキラの身体はのぼりつめた。
「ん…………っ、っっ」
シキに強く抱きしめられたまま、アキラは身体を震わせ精を放った。追い討ちのようにシキがアキラのなかで達し、その熱にまた震わされる。涙と唾液の軌跡が顎のところで混じりあい、大きな雫を作って落ちた。
力を失った二人の身体は、またベッドに沈み込んだ。
荒い呼吸を無理やりに整え、アキラは身体を起こしてシキを見た。仰向けのまま宙をさまようシキの目は春霞のようで、先刻まであった光はすっかり失われていた。
「シ……キ…!」
縋るようにアキラが声をかけると、シキは目を閉じ口を開いた。
「……俺は最早、流れには逆らわない…あるがままに任せる。流れに飲まれたくなければ…お前は俺から離れろ。一刻も早く」
そう言って、シキはそのまま眠りにはいってしまった。
「………シキ……」
残されたアキラはシーツを握り締め、声を殺して泣いた。
何度考えても答えは同じだ。
それをアンタは愚かだというだろう。
でも──アンタの言う「自然」を「運命」に変えてみたら、腑におちた。
俺のやるべきことが、たったひとつだとわかったんだ──
数日後──新しい住居に移る手続きをするために、駐屯所の職員に呼び出され、アキラは「それ」を行動に移した。
ひと気のない廊下の床をカツカツと鳴らしながら、職員の男はアキラの前を歩いていた。
階段の踊り場にさしかかったとき、アキラは静かに迅速に男の後頭部に拳を叩き込み、よろめいたところを羽交い絞めにした。
「な…なにを…」
叫ぼうとする男の首筋に先が鋭利になったガラスの破片を押しつける。
「ひ、いっ」と男の喉が笛のように鳴った。
「没収した日本刀は──どこに置いてある?」
男の頚動脈にわずかにガラスを食い込ませて、アキラは恫喝した。アキラの殺意は本物で、それが男にも伝わったのだろう。「と…隣の棟の倉庫に…」震える声で言った。
アキラは男から倉庫のカードキーを奪うと、みぞおちに拳をいれた。今度は手加減なく。男の体がくたりと弛緩し、アキラはブルゾンの内側に隠していた、シーツを切って繋いだ布ヒモで男の手足を縛り上げた。
そして男を階段下の物置の中に転がした。稼げる時間はわずかでしかないだろうが、これが自分にとっての最善であると信じ、アキラは倉庫に向かって駆け出した。
息を切らして部屋に飛び込むように戻ってきたアキラを、シキはいつものようにぼんやり見ていたが、さまよう視線がアキラの左手に縫いとめられた。
アキラはその手にシキの日本刀を持っていた。
「……どうしたんだ。それは」
「取り返してきたんだ。だってこれはアンタの物だろう?」
「言って返してもらえるものではないだろう…悶着を起こしてきたか」
「ああ…これで俺も強制送還になるかもな。でも俺はそれに従う気はないんだ」
「お前は……」
「シキ」
アキラはシキの手を取り、刀の鞘を握らせた。そのシキの手の甲に自分の手を包むように重ねる。
「自然なんかじゃ…ないだろ?アンタが「こうなる」のが自然なわけがない。アンタは何ものにも自分をいいようになんてさせない。すべてに刃向かって…勝ってきた…だろ?」
アキラは自分の豊かでない語彙を必死に集めて言葉を紡いだ。どこまでシキに伝わっているか。すべてが素通りしてもまったくおかしくない状況で、それでもアキラはシキを見つめ、言葉を継ぐ。
「俺も…そうありたい。俺はアンタほど強くないけど…最後まであがきたいんだ。アンタと」
シキを包む掌に力がこもった。
「だから」
声が叫ぶようなものになる。
「この刀を持ってくれ…シキ…!アンタなら抗えるはずだ!…お願いだから…この刀を…」
自分はシキに残酷なことを言っているのかもしれない。目線を床に落とし、アキラは思った。
アキラは口を閉ざし、部屋は静まり返った。ゆっくり、ゆっくりとシキに重ねていた手を離す。
果たして──刀はシキの手に握られていた。取り落とされることもなく。
「お前は……」
シキがほんのわずか口角をつりあげる。
「 叶わぬものに刃向かうのが本当に好きなようだな」
言いながら、鞘から刀身を抜いた。ブン、と一振りして宙を切り、また鞘に収める。
「いいだろう…もう少し抗ってやる。この先に何が待とうと、お前が目を背けずにいられればの話だが」
シキの言葉をアキラは天啓のように聞いた。
胸の中に何かが満ちる。それは決して喜びだけではなく、不安や悲しみといった負の感情も含んでいたが、アキラは厳かな気持ちでそれらを受け入れた。覚悟はとうにできている──
踵をあげてシキに顔を寄せた。漆黒の前髪をつい、と手でかきあげ、その瞳をのぞきこむ。
光があった──
いつ消えるとも知れない、頼りない光。しかしいまの二人の足元を照らし、道を示すだけの明るさはあった。
「とにかく…早くここを出よう」
言って、アキラはシキから離れた。ずっと見つめていたら泣いてしまいそうだ。ベッドの下からナップザックを引っ張り出し、日興連から支給された衣類、ペットボトルの水など、最低限必要なものだけを詰めた。邪魔にならない程度の重さになったことを確認して振り返ると──アキラの視界に黒いコートが翻った。
黒髪、黒衣、日本刀──アキラのよく知るシキの姿がそこにあった。
息をつめて、その姿に見入るアキラを一瞥して、シキは「行くぞ」と、顎を上向ける。
アキラは頷き、もう戻ることのない部屋の扉をあけた──この先に待つのは、往き先の見えない道、振り返ることの許されない道だろう。けれどアキラは、ためらいもなく、その一歩を踏み出した。
白い花びらが一枚、また一枚と散っていく。
だけど俺はそれから目を背けない。
たとえ、最後の一枚が散ったとしても──
俺はずっと──その花のそばにいる。
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コメント
なんか細かく捏造はいってますが、ご容赦ください。
しかし私が書くとどうにもシキさんが健全すぎます。
シキさんはもっと複雑な人だと思うんですが。
投稿: 後藤羽矢子 | 2006年5月15日 (月) 02時52分