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2005年10月19日 (水)

スクエア・ブルー 前編

 

本当は病室ではないのだが、病室としか形容できない白い部屋にはいると、部屋の主はあろうことか窓際に置かれたベッドの上で、両手と頭に野鳥をとまらせていた。
右手に二羽、左手と頭にそれぞれ一羽。

「…不衛生だわ」
医者ではないが白衣を来た、部屋の主の調査担当の女──エマは眉をしかめて呟いた。
部屋の主は、エマのほうをチラリと見ると「俺たちだって言うほど清潔じゃない」と抑揚のない声で言い軽く手をふりあげた。野鳥たちが窓から空に帰っていく。
刈り込まれた金髪に近い薄茶の髪、色素の薄い青い瞳、白い肌。
少年のような青年のような、捉えどころのない存在感。
しかし幾百もの人間を訳なく殺せる力を持つ男。
部屋の主の名は、Nicole・Premier、通称をn(ナノ)という。

エマがナノの調査担当を任命されたのは、つい一週間ほど前のことだ。
それまではENEDの研究室で、ウイルス培養のセクションにいた。
調査といっても、すでにナノについては身体能力から感情の起伏まで、毎日のように数値のでる検査をしているのだ。
エマが命じられたのは、ナノと話したり接触を試みて、それが感情にどう作用するかを、エマの目で調査する、いわば子供の観察日記のようなものだった。
若くしてエリートであるという自負をもっているエマには、今回の調査の任は不服だった。
自分の扱いが低いようで不満でもあったし、何よりこの得体の知れない青年とどう接していいかわからなくもあったのだ。

じつはエマもそれほど、情緒的に豊かなほうではない。
数値で割り切れない感情はないというのが、エマの持論だ。
どんな感情にも数式がある。原因とさまざまな要素が足されたり引かれたり掛け合わされたりしてひとつの感情を導き出す。多くの人間が「理屈にできない感情」などという言葉を安易に使うのは単にそこまで考えが至ってないだけだ。
しかし人は曖昧なものを好むらしい。エマはかなり上質な美人の部類で過去に何回か恋愛経験もあったが、エマの性格の硬質さに離れていく男も多かった。もちろんエマから離れていくことも同じくらい多かったが。

「パンで餌付けしてたの?」
エマはナノに問うた。本当はわかりきっていた。ナノの膝を覆う毛布にパンくずが点々と落ちていた。
「ちゃんと食事は規定量食べてもらわないと困るわ」
ナノはそれには答えず、窓の外に目をやったまま「…本は?」と言った。
「あるわよ…」エマは軽くため息をつく。
この男とまともな言葉のやりとりが成立することは、あまりない。
図書館から借りてきた本を数冊、ナノに手渡す。
本といっても、物語など感情を呼び起こす懼れのあるものは禁じられてるので、図鑑の類だ。
昨日は動物図鑑を読んでいた。…だから野鳥に興味をもったのだろうか。
結局、この一週間、エマのしていることは、ナノのために本を借り出し、与え、それを読むナノを自分も傍らで見守るだけだった。ときおり話しかけたりもしたが、会話になることはほとんどなかった。
エマも本を読みながら、時折りナノに視線を向けた。本を読みふける伏し目がちの顔、表情はないが美しい青年だと思う。髪は短いながらもわずかにカーブを描いており、伸ばせば美しい巻き毛になるだろう。
ぼんやりとナノの外見を分析しながら見つめていると、ふいにナノが顔をあげた。

目が合って内心で焦る。ナノはエマを無表情で見つめたまま「…お金に間違えられる花…」と呟いた。
「え?」意味がわからず聞き返すと、ナノは読んでいた本を指差した。
図書館で借りた植物図鑑だったのだが、子供のいたずらか、ページの隅につたない字で落書きがしてあった。
「お金に間違えられる花なんだ?」そう書いてある。
ナノはこれの答えを大真面目に聞いている。エマはクスリと笑った。
「ナノは何だと思うの?」
問われて少しの間、ナノは俯いていた。考えているらしい。ややあって「わからない…」と小さく言った。
「たぶんキンセンカじゃないかしら」
「何故?」
「金銭…か、とか」
大人二人のする会話だろうか。しかしナノは少し目を開き「ああ」と言った。納得したようだった。
「エマは頭がいいな」
「…子供の言葉遊びよ」
そう言いながらも、エマは少し胸が高鳴るのを自覚していた。初めてこの男に名前を呼ばれた。
そして会話のようなものが成立した。彼が人間であることを初めて実感した気になった。
「今度は、なぞなぞの本でも借りてきてあげるわ」
ナノの表情は変わらなかったが、彼が「きょとん」としてるのがエマには読み取れた。

その後、ナノと言葉遊びをする数日が続いた。
なぞかけや、アナグラム、ナノは言葉の少ない男だったが、意外にも語彙は多くそれらの遊びにもしっかりとついてこれていた。エマも楽しんでいた。遊び自体より、ナノの口から言葉をひきだすのが楽しかった。
平穏のようで平穏でない日々。
他愛もない言葉遊びに興じた次の日に、実戦で何十人もの命を屠る。
その温度差をナノはどう受け止めているのか、時折りそんな考えが頭に浮かぶが、エマはそれを振り払う。
考えてもしかたがないことだった。
しかし。

ある日いつものように、ナノの部屋にはいり、エマはナノの異変に気がついた。
ベッドの上に座って俯いている。いつもと変わりないようだったが、何かが違った。
「どうしたの?」
返事はない。
近づくと、彼の膝の上、一羽の野鳥が固くなっていた。
一瞬、ナノが殺したのかと思ったが、鳥の体に外傷はないようだった。
その鳥の死体にエマが手を触れようとしたとき、ナノが口を開いた。
「俺の、傷を、ついばんだら、こうなった…」
ナノは左腕をエマの前につきだした。先日の検査のときにつけられた二cmほどの切り傷があった。
「包帯は邪魔だから、取っていた…。俺はこれを腕に乗せていた。そうしたら…」
みなまで言わなくとも、エマにはわかった。
ナノの血に流れる、Nicoleウイルス─身体能力を増幅させる効果があるが、大概の者は拒否反応を起こして死んでしまう。それは人間以外の動物でも。エマ自身も動物実験に関わっていたのでそれはよく知っていた。

エマはナノを見た。彼が泣くかと思ったが表情は変わらないままだ。しかし彼は両手を自分の腿のあたりに置き、きつく爪を食い込ませていた。
やがて彼の指先に絡んだ布地から、赤が滲み出してきた。
「ナノ!」
エマは叫び、その手をひきはがした。
彼の心に嵐が吹き荒れている。しかしそれが外に出ることはない。彼の心には堰があって、そしてその堰を作ったのは、ENEDの研究員たちだ。当然それには自分もはいっている。
動物実験をしていて、その動物に対し罪の意識を感じたことはない。そんなものは相手にとってなんの慰めにもならない。なるとしたら自分の心に対してだ。
だから今までずっと、振り捨ててきた罪の意識、それをいまこの男に対して感じている。
自分にできることなど、本当に何もない──けれど。
エマは我知らずナノを抱きしめていた。
「悪いのはあなたじゃない。私たちだから。だから落ち着いて…。大丈夫、大丈夫だから」
呟きをナノの耳に吹き込み、その髪をそっと撫でた。
「…………」
長い沈黙のあと、ナノの体は弛緩した。

「エマは俺に触るのが嫌じゃないのか?」
落ち着きを取り戻したらしいナノがエマに問いかけた。
エマはナノの隣でベッドに腰掛けていて、いまだナノの頭を肩にもたれかけさせていた。
「嫌じゃないわ」
「俺の手には血がついていたのに」
「口内摂取しなければ大丈夫よ」
「研究所の人間は俺に触りたがらない」
「そんな人ばかりじゃないわ」
「………」
「とりあえず、傷の手当てをしないと」
立ち上がろうとしたエマの手をナノはつかんだ。エマが振り返ると、頼りなげに揺らぐ水色の双眸とかち合った。不安の色。それに気づけるのは、いまはエマだけだろう。
「もう少し…このままで…」
絞るようにナノは呟き、エマはそれに応じた。

それから、ナノはエマに体の接触を求めるようになった。
手を握ったり、頭を撫でたり、そういう他愛もないものだったが、ナノが喜んでいるのがわかった。
ナノがリラックスしているときは、首を左に傾げてることにエマは気がついた。いつもは体のあちこちに無駄に力をいれているのだ。見た目は全然変わらないようでも、ほんのわずかな差異をエマは見抜けるようになっていた。
エマはナノの求めるままにスキンシップに応じる。時には何時間も手だけ繋いだままで二人で窓の外を眺めているときもあった。
四角く切り抜かれた青空。
ほとんど外出を許されないナノの唯一の世界の扉。
それを美しいと思うのは、繋いだ手からナノの感情が伝わってくるからだろうか。
自分にしては非科学的なその考えに、エマは知らず知らず微笑んでいた。

その日も、二人そうしていた。
その日は雨が降っていて、湿った空気が二人の繋いだ手の温もりを余計に感じさせていた。
ナノはぼんやりと、けぶった窓の外を見ていたが唐突にぽつりと言った。
「エマに触られるのは、気持ちがいい」
ナノの声は抑揚のないものの、ほんのわずか、語尾に吐息のようなかすれがあって、その声音はエマの胸に染みこんで熱くさせた。この感情は何なのか、エマは感情の数式を検索してみる。
「…生き物は触れ合いたがるようにできてるのよ。人間だって動物だって身を寄せ合いたがるでしょう」
自分のとまどい悟られないように、エマはひどく型どおりの言葉でその場を取り繕う。
「…生き物が触れ合いたがるのは、生殖のためだろう」
ナノが呟き、エマは目を瞠った。
「生殖のことを知ってるの?」
「知識としては。性器と性器を結合させる。精子と卵子を結合させる。遺伝子を結合させる」
確かにナノは生物学の本も、数多読んでいる。生殖に関する知識があっても不思議ではない。
ただ、生殖と男女の睦言は、また似て非なるものだ。そのふたつがナノのなかでは結びついているのだろうか。
「エマは…したことあるのか?」
問われて返事に窮した。しかし言葉を濁していては、この男との会話は成立しない。
「あるわ」窓ガラスに浮かぶ水滴を見つめながら、エマは言った。
「いいものなのか。それは」
さらに問われエマは本気で驚いた。それはおそらく睦言を指している。この男はSEXに興味を抱いている。
「…一概には言えないわ。いいときも悪いときもある。自分の体のコンディションとか、相手とか、環境も影響するときがある。例え全く同じ状況でしても、違う感覚を抱くときもあるわ」
「不思議なものだな」
「…そうね」
それきりナノは黙り込み、エマもそれ以上何か言う気にならなかったので、また二人は窓の外、曇天を貫く雨の糸を見つめていた。
数十分たち、すっかり会話は終わっていたものと思っていたが、雨音にかき消されてしまいそうな呟きをナノは突然にこぼした。
「俺は、エマと、してみたい」
ドクン、と、エマの胸が鳴った。
エマは必死で胸のなかで検索した。が、いまの感情をはじき出した数式がどうしても見つからない。

ENEDの研究所の棟ひとつ向こう、職員寮の自室でエマは考えていた。
明かりもつけないままの暗い部屋、ただパソコンのモニターがだけがぼんやりと光り、エマの頬を青く照らしている。

「俺は、エマと、してみたい」
ナノの言葉を反芻する。
現在の状況で、ナノとSEXをするのは不可能に近い。
ナノは毎日のように身体面、感情面の測定をされている。SEXなどをしてそれを隠しおおせるほどの平静が保てるとはとても思えない。それがナノであっても。
もしばれたら、自分とナノは当然引き離されるだろうし、ナノ自身のロボトミー化が強化される可能性もある。
そこまで考えて、自分はすっかりナノの求めに応じるつもりでいることに気づき、苦笑した。
そう──エマもナノを欲しいと思っていた。
恋情か、肉欲か、贖罪か。
どれも当てはまらないとも思うし、どれも当てはまるような気もする。
エマはいままで経験したこのない不可解な感情を持て余していた。
ナノに対しての想いを感じるたび、胸が騒ぎ、喜びとも不安ともつかないものが身のうちを巡っていく。
激しくはない。霧雨のようだ。しかしいつの間にかそれは体中に染みこんでいく。
その不可解に翻弄されることを、エマはいま心地いいと感じていた。

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コメント

エマの喋りを、ゲーム内のような男っぽいものにするか、けっこう悩みましたが、この当時は女言葉を使っていたような気がする。
ホントに自分の勝手な推測なんですけど。

投稿: 後藤羽矢子 | 2005年10月19日 (水) 22時53分

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